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近代の国家仏教

出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-) 最終更新:2024年1月19日 (金)

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都合悪いことがあるのか、専門的な研究者がいないので自分で調べるしかない。

目次

一覧

  • 門跡寺院:現代でも宮中との関係が強い。毎年、「御下賜金」がある。
  • 御由緒寺院
  • 勅会
  • 勅封
  • 大師号
  • その他:
    • 泉涌寺:「御寺」。
    • 護浄院:毎年1月、5月、9月に天皇皇后と皇太子の安泰を祈願して宮中にお札とお守りを献上。皇室から「供物料」が供えられている。

年譜

孝明天皇時代

  • 1863年(文久3年):青蓮院門跡尊融親王が還俗。(論文A)
  • 1864年(元治1年):勧修寺門跡済範親王が還俗。(論文A)
  • 1864年(元治1年):西本願寺、天龍寺内の亀山天皇法華堂(亀山天皇陵)を復興する。1866年(慶応2年)1月10日、年頭の拝謁の際、孝明天皇が功績を認める勅語を下し、御衣1領を下賜する[1]
  • 1865年(慶応1年)12月25日:孝明天皇、泉涌寺を「諸寺之上席」とする。(論文A)
  • 1866年(慶応2年)10月:岩倉具視が王政復古実現のための課題として出家皇族の還俗や御所内の仏の処置を掲げる。(論文A)

明治天皇時代

  • 1598年(慶長3年)4月:明治天皇、西本願寺の広如、徳如、明如に孝明天皇遺品を下賜(『本願寺』[2]
  • 1867年(慶応3年)6月4日:明治天皇、3月18日に焼失した大谷本廟仏殿(歴代の天皇尊牌を祀る)の再建の綸旨を出し、資材を下賜(『本願寺』[3])。
  • 1867年(慶応3年)12月:仁和寺宮純仁親王が還俗。(論文A)
  • 1867年(慶応3年)12月25日:明如が参内。禁裏の「御用」を仰せ付けられる。
  • 1867年(慶応3年)1月27日:孝明天皇大喪儀。戸田忠至の建議につき「神祇式」に改められる。28日まで続く。(論文A)
  • 1868年(明治1年)12月25日:孝明天皇3年祭から神式で実施。(論文A)
  • 1868年(明治1年)1月:聖護院宮雄仁親王が還俗。(論文A)
  • 1868年(明治1年)1月:知恩院宮尊秀親王が還俗。(論文A)
  • 1868年(明治1年)1月:戊辰戦争勃発。新政府、西本願寺に京都御所猿ケ辻の警衛を命じる。
  • 1868年(明治1年)3月17日:神仏分離令。28日にも。
  • 1868年(明治1年)4月17日:皇族の出家を禁止。(論文A)
  • 1868年(明治1年)閏4月:梶井宮昌仁親王が還俗。(論文A)
  • 1868年(明治1年)閏4月:照高院宮信仁親王が還俗。(論文A)
  • 1868年(明治1年)10月10日:明治天皇、東京行幸で清浄光寺を行在所とする(時衆年表)。
  • 1868年(明治1年)12月9日:明治天皇、京都還幸で清浄光寺を行在所とする(時衆年表)。
  • 1869年(明治2年)2月:明治天皇、浄土宗の関東十八檀林を勅願所とする(仏教大語彙)。
  • 1869年(明治2年)7月23日:中御門経之を恭明宮造営御用掛に任命。御黒戸の移転として計画される。(論文A)
  • 1869年(明治2年)9月:輪王寺宮公現親王が還俗。(論文A)
  • 1870年(明治3年):仁孝天皇25年祭、泉涌寺と般舟院の勅会廃止。(論文A)
  • 1870年(明治3年)12月18日:恭明宮落成。(論文A)
  • 1871年(明治4年)8月:勅願所廃止。(仏教大語彙)
  • 1871年(明治4年)10月17日:泉涌寺以外の由緒寺院への下賜金を廃止。(論文A)
  • 1871年(明治4年)11月9日:恭明宮が正式に宮内省の管轄となる。(論文A)
  • 1871年(明治4年)1月23日:宮内省は京都在住の女官に恭明宮移住を命じる。(論文A)
  • 1871年(明治4年)1月5日:上知令。社寺の境内地以外が官有地となる。陵墓の土地もこの時、官有地になったという。(論文A)
  • 1871年(明治4年)3月:江藤新平ら制度分局が皇室の神仏分離を検討。(論文A)
  • 1871年(明治4年)5月30日:京都御所の御黒戸を廃止。位牌や念持仏などを恭明宮に奉遷した。(論文A)
  • 1871年(明治4年)6月17日:門跡・比丘尼御所の号を廃止。(論文A)
  • 1871年(明治4年)8月1日:御黒戸の解体が始まる。(論文A)
  • 1871年(明治4年)9月2日:大元帥法や後七日御修法の宮中で行う法会や諸寺の勅会を廃止。(論文A)
  • 1872年(明治5年):壬申検査
  • 1872年(明治5年):東西本願寺の大谷家が華族となる。
  • 1873年(明治6年)3月14日:恭明宮、廃止。(論文A)
  • 1874年(明治7年):泉涌寺「東京出開扉事件」。泉涌寺子院の戒光寺と安楽光院が回向院で泉涌寺宝物の出開扉を実施したが、借財のため宝物が差押えされる。(論文A)
  • 1874年(明治7年)12月:宮内省、皇室関係寺院の困窮を懸念材料とみなす。(論文A)
  • 1875年(明治8年):瑞龍寺門跡の村雲日栄と、善光寺大本願の久我誓円が、皇族復帰を願うが認められなかった。(論文A)
  • 1875年(明治8年):正倉院が内務省の管理となる。時期不詳だが、以後、北倉・中倉だけでなく南倉も勅封となる。
  • 1875年(明治8年)12月:青蓮院、曼殊院、毘沙門堂、三千院、妙法院の天台宗旧門跡寺院が太政大臣に嘆願書を提出し、負債により寺院経営が立ち行かなくなった窮状を訴え、寺禄の下賜を求めた。(論文A)
  • 1876年(明治9年)6月1日:宮内省、京都府内の歴代天皇などの位牌などを泉涌寺に合祀するように命じる。奉護料として年1200円を下賜。泉涌寺が明確に特別扱いされる始まりだという。(論文A)
  • 1876年(明治9年)6月12日:太政官、京都府などの31寺の寺録などを廃止を通達。太政官日誌には32寺とあるが31寺しか列挙されていない。般舟院霊源寺法常寺泉涌寺仁和寺大覚寺妙法院聖護院青蓮院勧修寺三千院、曼珠院(曼殊院)、実相院三宝院随心院毘沙門堂霊鑑寺大聖寺、光照寺(光照院)、宝鏡寺曇華院林丘寺三時知恩寺総持院、宝恋院(宝慈院)、本光院円照寺法華寺中宮寺、円満寺(円満院)、禅智院(輪王寺宮、照高院、知恩院、蓮華光院、大乗院、一乗院、真宗寺院は含まれていない。滋賀院はまだ門跡ではない。尼門跡では慈受院、瑞龍寺が含まれていない)。仁和寺など23寺(22寺しか記載がない)と円照寺など3寺、円満寺(円満院)など2寺には京都府・堺県(現奈良県)・滋賀県にそれぞれまとめて通達。泉涌寺については別個京都府に通達。般舟院・霊源寺・法常寺については扱いが特殊だったのか大蔵省に通達を出している。(太政官日誌同日条[4]
  • 1876年(明治9年)11月28日:明治天皇、浄土真宗の親鸞(1173-1262)に大師号「見真大師」を下賜(太政類典)。
  • 1877年(明治10年)5月:明治天皇、西本願寺の「宗祖聖人諡号法会」に勅使四辻侍従を差遣し、錦1巻を下賜。
  • 1877年(明治10年):明治天皇、本願寺築地別院の「宗祖聖人諡号法会」に錦1巻を下賜。また英照皇太后も緞子1巻を下賜。
  • 1877年(明治10年)2月:明治天皇、奈良行幸。東大寺本坊を行在所とする。正倉院宝物を拝観。
  • 1877年(明治10年)2月10日:明治天皇、称念寺を行在所とする。
  • 1877年(明治10年)6月16日:宮内省、京都府から提示された泉涌寺の運営の改革案を認める。子院の権限を弱めた。(論文A)
  • 1877年(明治10年)9月22日:京都府、仁和寺・毘沙門堂・随心院・青蓮院・曼殊院に改革を求める。寺院運営から子院の排除を命じた。(論文A)
  • 1877年(明治10年)12月23日:宮内省、泉涌寺住職の負債については不干渉の方針を示す。(論文A)
  • 1878年(明治11年)1月22日:宮内省、皇族の泉山での法事供養、位牌殿の参拝・焼香などを正式に認める。(論文A)
  • 1878年(明治11年)9月26日:明治天皇、泉涌寺別院雲龍院の保護のため以後毎年200円を下賜。(「恩賜録」、論文A)
  • 1878年(明治11年)2月:法隆寺、皇室に宝物を献上。皇室から1万円下賜。
  • 1879年(明治12年):有栖川宮が播磨斑鳩寺太子堂(聖徳殿)に聖徳太子の御衣を奉納。以後、皇族からの奉納が慣例となる。(『法隆寺領鵤庄』)
  • 1879年(明治12年)4月:「大師号国師号賜与内規」を制定。
  • 1879年(明治12年)11月:宮内省、内務省からの照会に対し、泉涌寺の建物や宝物は宮内省所属との見解を示す。(論文A)
  • 1879年(明治12年)11月7日:明治天皇、臨済宗の授翁宗弼(1296-1380)に国師号「円鑑国師」を下賜(『明治史要補正第1巻』)。500年遠諱による。『人名辞書』には明治2年とある。『妙心寺御開山関山国師御伝』によると、明治12年の遠諱に万里小路家と山岡鉄舟の働き掛けで実現したという。『皇室と寺院』には11月22日とある。
  • 1879年(明治12年)11月22日:明治天皇、曹洞宗の道元(1200-1253)に大師号「承陽大師」を下賜(太政類典)。
  • 1879年(明治12年)9月22日:明治天皇、「特別之訳」をもって泉涌寺の負債償却のための一時金2500円を下賜。(論文A)
  • 1879年(明治12年)9月24日:明治天皇、泉涌寺に毎年下賜する尊像尊牌奉護料を1200円から1800円に増額。(「恩賜録」、論文A)
  • 1879年(明治12年)9月29日:明治天皇、勅額「見真」を西本願寺東本願寺(現真宗本廟)に下賜(『皇室と寺院』)。勅額下賜の初例。
  • 1879年(明治12年)10月31日:明治天皇、勅額「見真」を専修寺に下賜 (『皇室と寺院』)。
  • 1880年(明治13年):伏見宮宗諄女王と文秀女王が皇族のまま入寺許可。(論文A)
  • 1880年(明治13年)1月31日:明治天皇、泉涌寺の御仏具修理費として500円を下賜。(「恩賜録」、論文A)
  • 1880年(明治13年)4月12日:明治天皇、勅額「見真」を仏光寺に下賜 (『皇室と寺院』)。
  • 1880年(明治13年)7月10日:西本願寺、大学林の門扉・柵垣(1879年(明治12年)1月竣工)を献上し、明治天皇誕生の地である中山邸跡の旧跡に移築し、この日竣工した。19日、明治天皇が大学林に行幸。大谷光尊拝謁。(『本願寺』[5]
  • 1880年(明治13年)7月:大宮御所の御黒戸を西本願寺に下賜。大宮御所の御殿と皇后宮車寄を東本願寺に下賜。(論文A)
  • 1880年(明治13年)7月16日:明治天皇、孝明天皇陵を参拝後、泉涌寺霊明殿を参拝。(論文A)
  • 1880年(明治13年)10月23日:明治天皇、勅額「見真」を京都・興正寺に下賜 (『皇室と寺院』)。
  • 1881年(明治14年)2月17日:明治天皇、勅額「見真」を錦織寺に下賜 (『皇室と寺院』)。
  • 1881年(明治14年)12月23日:明治天皇、臨済宗(黄檗宗)万福寺2世の木庵性〓(1611-1684)に国師号「慧明国師」を下賜(『皇室と寺院』)。『京都府宇治郡誌』には1882年(明治15年)とある。
  • 1882年(明治15年)2月24日:真言宗管長三条西乗禅、「宮中後七日御修法御修行願」を提出。歴代天皇の御願による重大な儀式(列聖叡願ノ盛典)が行われていないことを嘆き、翌年から執行することを請願。真言宗の発展のみならず、その功徳により万民の幸福を増進し国土安穏を祈る。ただし直前に後七日御修法「再興」の願書を出したが、取り下げた。(論文A)
  • 1882年(明治15年)3月:釈雲照、後七日御修法の「再興」を願う長文の請願書を提出。「旧典に沿い速に御修行」を願う。(論文A)
  • 1882年(明治15年)3月22日:明治天皇、浄土真宗の蓮如(1415-1499)に大師号「慧燈大師」を下賜(公文録)。
  • 1882年(明治15年)3月22日:明治天皇、蓮如墓の土地を西本願寺と東本願寺の両寺に下賜(同日に西本願寺から上地した土地を直後に譲渡した)。内務省より両寺に通達。
  • 1882年(明治15年)4月4日:真言宗管長三条西乗禅、先の請願は「再興」願いではなく、勅使の臨監を願う訳でもないと補足説明している。(論文A)
  • 1882年(明治15年)4月8日:宮内省から内務省に後七日御修法の執行方法について素案を示した。執行主体はこれまでのように天皇ではなく場所も宮中ではなく、僧侶・寺院であること(「寺門に於て執行」)、勅使を派遣せず地方長官も臨監しないこと、太政官に上申せず宮内省として指令することなどを示した。これに対し内務省は同月15日、延暦寺法華会・園城寺法華会・園城寺灌頂会と同様に地方長官の臨監が適当であるとの回答を宮内省に提出。宮内省もこれを了承した。(論文A)
  • 1882年(明治15年)4月14日:明治天皇、勅額「真空」を宇治・万福寺に下賜(『皇室と寺院』)。現在、大雄宝殿にある額と思われる。
  • 1882年(明治15年)7月24日:釈雲照、後七日御修法の再興の内願を提出。歴代天皇が相続してきた嘉例を断絶させてはいけないと訴えた。(論文A)
  • 1882年(明治15年)8月4日:宮内省、「寺門に於いて修行いたすべきこと」として後七日御修法の再興を許可した。「歴朝厳儀慣行之古典」として地方長官の臨監を認めた。(論文A)
  • 1882年(明治15年)8月18日:明治天皇、徳川家茂17回忌につき、勅使を派遣し、香華料を下賜。
  • 1882年(明治15年)8月28日:真言宗管長三条西乗禅、後七日御修法再興にあたり、「玉体御加持ならびに御衣御加持」を重ねて請願。(論文A)
  • 1882年(明治15年)9月16日:宮内省、三条西乗禅の請願に対し、後七日御修法での玉体加持の実施は却下。御衣のお下げは採用された。(論文A)
  • 1882年(明治15年)10月14日:泉涌寺火災。午後9時半頃、出火し、霊明殿、御影殿、御法事殿、大小方丈などが焼失。尊牌などは無事で、雲龍院に奉遷した。(論文A)
  • 1882年(明治15年)10月20日:泉涌寺寺務掛の妙法院門跡の村田寂順が、山階宮・久邇宮・東伏見宮・北白川宮に霊明殿などの再建を請願。(論文A)
  • 1882年(明治15年)10月21日:泉涌寺住職佐伯旭雅、失火の責任で、辞職と、「再営ノ勅宣」を乞う。(論文A)
  • 1882年(明治15年)11月17日:泉涌寺住職佐伯旭雅について辞職に及ばずとし、再興については調査中とした。(論文A)
  • 1882年(明治15年)12月26日:宮内省、後七日御修法の祈祷の目的を「玉体安穏宝祚無窮」とすること、巻数を献上することを認めたが、勅使参向と陵墓前での仏式祭典の実施は認めないこととした。(論文A)
  • 1883年(明治16年):仁和寺護持のために仁和会設立。元仁和寺門跡の小松宮彰仁親王が組織。
  • 1883年(明治16年):正倉院宝物の定期曝涼開始。
  • 1883年(明治16年)1月8日:後七日御修法、再興。(論文A)
  • 1883年(明治16年)5月11日:宮内省、陵墓前建物や霊明殿など泉涌寺の建物の再建を決定。6万4200円を下付。里内裏の建物を利用。工事は宮内省内匠課が管轄。(論文A)
  • 1883年(明治16年)6月26日:明治天皇、天台宗の真盛(1443-1495)に大師号「慈摂大師」を下賜(公文類聚)。『観無量寿経』の「仏心者大慈悲是以無縁慈摂諸衆生」に依るという(『天台宗真盛派講説』)。
  • 1883年(明治16年)6月26日:明治天皇、泉涌寺開山の俊ジョウ(1166-1227)に大師号「月輪大師」を下賜(公文類聚)。
  • 1883年(明治16年)10月8日:内達「大師号国師号賜与内規」を改定。
  • 1884年(明治17年)3月1日:泉涌寺旧境内地を陵墓付属地に編入。(論文A)
  • 1884年(明治17年)5月6日:正倉院の管理が宮内省に一本化される。
  • 1884年(明治17年)5月26日:明治天皇、臨済宗方広寺開山の無文元選(後醍醐天皇皇子)(1323-1390)に国師号「聖鑑国師」を下賜(『皇室と寺院』)。
  • 1884年(明治17年)5月26日:明治天皇、臨済宗の白隠(1685-1768)に国師号「正宗国師」を下賜(『皇室と寺院』)。現在の臨済宗(黄檗宗を含む)の僧侶はすべて白隠の弟子筋に当たる。
  • 1884年(明治17年)8月:教導職制度廃止。
  • 1884年(明治17年)10月10日:明治天皇、泉涌寺落成につき御道具類新調手当として2000円を下賜。(「恩賜録」、論文A)
  • 1884年(明治17年)10月13日:霊明殿など再建工事完了。(論文A)
  • 1884年(明治17年)11月:東西本願寺、他の門跡寺院に先行して「宗派に長たる者の名称」として門跡号の復称を求めた。
  • 1884年(明治17年)11月6日:泉涌寺霊明殿の落慶遷座式。雲龍院から尊牌尊像を霊明殿に奉遷。(論文A)
  • 1884年(明治17年)11月7日:泉涌寺、月輪大師諡号奉告会を執行。(論文A)
  • 1884年(明治17年)12月24日:旧門跡寺院、「特別格式」を願う。賢所参拝、三大節参賀の許可を請願するが、不許可となる。(論文A)
  • 1885年(明治18年)3月17日:内閣、「寺格に属するの名称」として門跡号の復旧を許可。(論文A)
  • 1885年(明治18年):宮内省図書寮に正倉院宝庫掛設置。
  • 1885年(明治18年):真宗大谷派、釜山別院に「今上天皇聖躬万歳」尊牌と「孝明天皇尊儀」尊牌を下付。翌年2月17日に「披露」されたという。(「皇道仏教という思想」)
  • 1885年(明治18年):時宗宗制寺法を認可(時衆年表)。
  • 1886年(明治19年)12月:真宗大谷派、上海別院に「孝明天皇天牌」を下付。(「皇道仏教という思想」)
  • 1887年(明治20年)3月9日:「大師号国師号賜与内規」廃止。
  • 1888年(明治21年)12月12日:門跡寺院に宮中参賀・賢所参拝を許可。法親王が御住職だった御由緒から、他の普通の本寺本山の類とも相異するとして門跡の寺格を実質的に保証した。(論文A)
  • 1889年(明治22年):帝国博物館成立。正倉院はその管理下となる。
  • 1889年(明治22年):真宗大谷派、ソウルに釜山別院支院として布教所(のちの京城別院)を設置。「韓国皇帝」と「韓国皇太子」の天牌を奉安した。(「皇道仏教という思想」)
  • 1889年(明治22年)11月22日:妙法院住職村田寂順らは宮中の席次の向上を嘆願。管長が勅任官取扱なのに、門跡寺院は奏任官以下とすることに不満をもらした。宮内省はこの訴えを却下した。(1941年(昭和16年)に管長に準じることが認められた)(論文A)
  • 1890年(明治23年):帝室宝器主管を設置。正倉院宝物も管轄か。
  • 1890年(明治23年)11月7日:昭憲皇太后、宝鏡寺の勅作堂修復のため金100円を下賜。(論文A)
  • 1890年(明治23年)12月31日:泉涌寺、昭憲皇太后の依頼で泉涌寺奉安の光格天皇勅作の阿弥陀如来像を届ける。(論文A)
  • 1890年(明治23年):清浄光寺、勅願所となることを出願するが却下される(時衆年表)。
  • 1891年(明治24年)2月4日:皇后(昭憲皇太后)、泉涌寺に孝明天皇御霊殿仏具料として250円を下賜。(「恩賜録」、論文A)
  • 1892年(明治25年):宮内省に正倉院御物整理掛を設置。赤坂離宮内に。
  • 1895年(明治28年):帝国奈良博物館が開館
  • 1895年(明治28年)12月23日:明治天皇、泉涌寺に霊明殿荘厳具補足費として1000円下賜。(「恩賜録」、論文A)
  • 1897年(明治30年):古社寺保存法、成立。
  • 1898年(明治31年):日本美術院、設立。
  • 1900年(明治33年):帝国博物館を帝室博物館に改称。
  • 1902年(明治35年)5月3日:明治天皇、勅額「承陽」を永平寺に下賜(『皇室と寺院』)。現在、承陽殿にある。
  • 1904年(明治37年): 宮内省の正倉院御物整理掛、廃止。
  • 1905年(明治38年)4月21日:真宗大谷派、「助音地」の寺格以上の寺院に天牌を下付。1913年9月15日には寺格条項がなくなり、全寺院が対象となる。(「皇道仏教という思想」[6]
  • 1906年(明治39年)6月30日:明治天皇、泉涌寺に霊明殿荘厳具補修費として300円下賜。(「恩賜録」、論文A)
  • 1906年(明治39年)11月18日:大韓帝国皇帝、東本願寺京城別院に「大韓阿弥陀本願寺」の勅額を下賜。(「皇道仏教という思想」)
  • 1907年(明治40年)5月13日:明治天皇、真宗本願寺派管長伯爵大谷光瑞に日露戦争への門末の「奉公」と、従軍僧侶派遣をねぎらう勅語を賜う。
  • 1908年(明治41年):東京帝室博物館に正倉院宝庫掛を設置。
  • 1909年(明治42年)4月7日:明治天皇、臨済宗妙心寺開山の関山慧玄(1277-1360)に大師号「無相大師」を下賜(佐野恵作『皇室と寺院』)。
  • 1909年(明治42年)6月23日:明治天皇、泉涌寺に仏殿本尊及び仏具修理費補助金として300円下賜。(「恩賜録」、論文A)
  • 1909年(明治42年)9月8日:明治天皇、曹洞宗総持寺開山の瑩山紹瑾(1268-1325)に大師号「常済大師」を下賜(峯玄光1909『常済大師御伝記』)。
  • 1911年(明治44年)2月27日:明治天皇、浄土宗の法然(1133-1212)に大師号「明照大師」を下賜(佐野恵作『皇室と寺院』)。700年遠忌による。

大正天皇時代

  • 1912年(大正1年)5月31日:明治天皇、泉涌寺に毎年下賜する尊像尊牌奉護料を1800円から4200円に増額。(「恩賜録」、論文A)
  • 1913年(大正2年):正倉院、解体修理。
  • 1914年(大正3年):正倉院宝庫掛が東京帝室博物館から奈良帝室博物館に移転して正倉院掛となる。
  • 1914年(大正3年)2月27日:大正天皇、勅額「明照」を知恩院に下賜(『皇室と寺院』)。御影堂にある。
  • 1917年(大正6年)3月7日:大正天皇、臨済宗(黄檗宗)の隠元(1592-1673)に大師号「真空大師」を下賜(佐野恵作『皇室と寺院』)。
  • 1919年(大正8年)8月21日:大正天皇、泉涌寺に朝鮮総督寺内正毅寄進の大蔵経を収蔵する経蔵の建造費用として9000円下賜。(「恩賜録」、論文A)
  • 1919年(大正8年)10月28日:大正天皇、臨済宗円覚寺中興の誠拙周樗(1745-1820)に国師号「大用国師」を下賜(『皇室と寺院』)。
  • 1920年(大正9年):延暦寺の御修法が復興。(論文A)
  • 1921年(大正10年):伏見宮、総持寺に「紫雲台」の染筆を下賜。独住4世の石川素童の請願による。独住5世の新井石禅が宮邸に赴き拝受する。
  • 1922年(大正11年):真宗大谷派、台北別院に天牌下付。(「皇道仏教という思想」)
  • 1922年(大正11年)10月9日:大正天皇、日蓮宗の日蓮(1222-1282)に大師号「立正大師」を下賜(佐野恵作『皇室と寺院』)。
  • 1925年(大正14年)4月1日:大正天皇、勅額「常済」を総持寺に下賜(『皇室と寺院』)。600遠忌に合わせて。

昭和天皇時代:前期

  • 1926年(昭和1年):臨時宮内省御用掛の外崎覚は尊像尊牌調査を実施。(論文A)
  • 1927年(昭和2年)3月22日:昭和天皇、臨済宗の授翁宗弼(1296-1380)に大師号「微妙大師」を下賜(佐野恵作『皇室と寺院』)。
  • 1928年(昭和3年)4月16日:昭和天皇、臨済宗永源寺開山の寂室元光(1290-1367)に国師号「正燈国師」を下賜(『皇室と寺院』)。
  • 1929年(昭和4年):宮内省、本格的な皇室関係寺院の調査を開始。(論文A)
  • 1930年(昭和5年)4月7日:昭和天皇、臨済宗東福寺開山の円爾弁円(1202-1280)に国師号「神光国師」を下賜(『皇室と寺院』)。
  • 1930年(昭和5年)5月12日:昭和天皇、曹洞宗永平寺2世の孤雲懐奘(1198-1280)に国師号「道光普照国師」を下賜(『皇室と寺院』)。
  • 1931年(昭和6年)10月1日:昭和天皇、勅額「立正」を久遠寺に下賜(『皇室と寺院』)。現在、祖廟拝殿にある。
  • 1931年(昭和6年)11月:昭和天皇、明恵700年遠忌につき香華料を下賜。
  • 1932年(昭和7年)5月19日:昭和天皇、臨済宗(黄檗宗)の鉄眼道光(1630-1682)に国師号「宝蔵国師」を下賜(『皇室と寺院』)。『大蔵経』出版の功績。
  • 1933年(昭和8年)4月15日:昭和天皇、臨済宗大徳寺開山の宗峰妙超(1282-1337)に国師号「玄覚浩淵国師」を下賜(『皇室と寺院』)。
  • 1935年(昭和10年):久邇宮が播磨斑鳩寺聖徳殿に聖徳太子像の御衣を奉納。(『法隆寺領鵤庄』)
  • 1935年(昭和10年)4月3日:昭和天皇、勅額「慈摂」を西教寺に下賜(『皇室と寺院』)。現在、宗祖大師殿にある。
  • 1935年(昭和10年)4月8日:昭和天皇、臨済宗妙心寺6世の雪江宗深(1408-1486)に国師号「本源円通国師」を下賜(『皇室と寺院』)。
  • 1937年(昭和12年)3月6日:知恩院で鎮西上人、記主上人、勢観上人の遠忌を7日間にかけて執行。昭和天皇が香華料を下賜。(『毎日年鑑昭和13年』
  • 1937年(昭和12年)3月8日:昭和天皇、曹洞宗総持寺2世の峨山韶碩(1275‐1365)に国師号「大現宗猷国師」を下賜(『皇室と寺院』)。
  • 1937年(昭和12年)4月12日:昭和天皇、勅額「弘法」を金剛峰寺に下賜(『皇室と寺院』)。現在、根本大塔にある。
  • 1937年(昭和12年)7月3日:昭和天皇、勅額「伝教」:延暦寺に下賜(『皇室と寺院』)。現在、根本中堂にある。
  • 1938年(昭和13年)4月11日:昭和天皇、臨済宗の無文元選(1323-1390)に大師号「円明大師」を下賜(佐野恵作『皇室と寺院』)。
  • 1939年(昭和14年):佐野恵作『皇室と寺院』刊行。(論文A)
  • 1940年(昭和15年)3月23日:昭和天皇、時宗の一遍(1239-1289)に大師号「証誠大師」を下賜(『時衆年表』)。650年遠忌にあたり。
  • 1940年(昭和15年)10月2日:東久邇宮邸から増上寺に静寛院宮持仏堂を移築(浄土宗近代百年史年表)。
  • 1940年(昭和15年)11月5日:東京帝室博物館で正倉院御物特別展観を開催。24日まで。
  • 1940年(昭和15年)12月10日:昭和天皇、泉涌寺に光格天皇100年御忌執行につき香華料100円を下賜。(「恩賜録」、論文A)
  • 1941年(昭和16年)3月27日:時宗新宗制認可(時衆年表)。
  • 1941年(昭和16年)4月23日:専念寺の尊観法親王の墓が皇室陵墓に治定される(時衆年表)。
  • 1941年(昭和16年)8月23日:拝賀・参賀での宮中席次について門跡寺院を管長に準じる取扱を許可。(論文A)
  • 1941年(昭和16年)12月26日:宮内省通牒により御由緒寺院の光照院と三時知恩寺は尼門跡と称することになる(浄土宗近代百年史年表)。
  • 1942年(昭和17年)2月16日:昭和天皇、泉涌寺に四条天皇700年御忌法要執行について香華料100円を下賜。(「恩賜録」、論文A)
  • 1944年(昭和19年)10月5日:昭和天皇・香淳皇后、9月3日の高野山電鉄細川駅付近事故の慰霊法要のために運輸通信大臣に香華料を下賜(官報同日)。
  • 1944年(昭和19年)11月7日:清浄光寺、明治天皇史蹟に指定される(時衆年表)。
  • 1945年(昭和20年)1月25日:昭和天皇・香淳皇后、東急鶴見市場駅付近事故の慰霊法要のために運輸通信大臣に香華料を下賜(官報同日)

昭和天皇時代:後期

  • 戦後:正倉院宝物が御物から国有財産に移行する。
  • 戦後:法隆寺献納宝物のうち約300件が国に移管。
  • 1946年(昭和21年):奈良帝室博物館で正倉院特別展観を開催。第1回正倉院展。
  • 1947年(昭和22年):宮内庁図書寮に正倉院事務所を設置。
  • 1947年(昭和22年):帝室博物館が国立博物館となる。
  • 1948年3月22日:5月1日から7日の戦没者法要のために「灯明料」を下賜。
  • 1954年(昭和29年)10月21日:延暦寺で勅使石川忠および文部省技官ら立ち会いのもと、唐櫃の勅封を開封。結果、光定戒牒が国宝に指定された。
  • 1962年(昭和37年):高松宮が播磨斑鳩寺聖徳殿に聖徳太子像の御衣を奉納。(『法隆寺領鵤庄』)
  • 1961年(昭和36年)2月27日:昭和天皇、浄土宗の法然(1133-1212)に大師号「和順大師」を下賜(『宗教年鑑』)。750年遠忌による。
  • 1962年(昭和37年):正倉院、新宝庫(西宝庫)竣工。翌年、宝物を移転。
  • 1972年(昭和47年):昭和天皇、臨済宗(黄檗宗)の隠元(1592-1673)に大師号「華光大師」を下賜(万福寺ウェブサイト)。

平成時代

  • 1989年(平成1年):三千院門跡で御懺法を復興。宮内庁京都事務所長の参列が慣例となる。
  • 2011年(平成23年)3月16日:平成の天皇、浄土宗の法然(1133-1212)に大師号「法爾大師」を下賜(浄土宗知恩院派ウェブサイト)。800年遠忌による。
  • 2014年(平成26年):正倉院、屋根葺き替え修理
  • 2015年(平成27年)5月21日:秋篠宮文仁親王、金剛峰寺奥之院を参拝。同日、高野山開創1200年記念大法会結願法会に臨席。
  • 2018年(平成30年):大覚寺勅封般若心経開封法会。

令和時代

  • 2019年(令和1年)4月28日:延暦寺、即位奉祝の臨時の御修法
  • 2019年(令和1年)10月22日:令和の即位礼正殿の儀に念法真教燈主の桶屋良祐が出席。
  • 2019年(令和1年)11月14日:令和の大嘗祭に泉涌寺長老ら出席。
  • 2020年(令和2年)6月30日:大谷暢顕(平成の天皇のいとこ)、真宗大谷派門首を退任。
  • 2020年(令和2年):高野山で即位記念の大元帥法を執行予定
  • 2021年(令和3年):醍醐寺で即位記念の大元帥法を執行予定
  • 2021年(令和3年)9月1日:延暦寺で宮内庁職員の立ち合いのもと「勅封唐櫃」の開封の儀が行われた[7]。しかしながら、映像から儀式の様子をみる限り、全て僧侶が作業をしており、正式な「勅封」ではないと思われる(現行の勅封は正倉院と東山御文庫のみといわれる)。
  • 2022年(令和4年)2月25日:令和の天皇、隠元350年遠忌につき大師号「厳統大師」下賜。

資料

  • 論文A:辻岡健志「皇室の神仏分離とその後の仏教」

画像

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