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修験道の年表

出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-)

2016年12月11日 (日) 時点におけるWikiSysopKARASUYAMA (トーク | 投稿記録)による版
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目次

奈良時代

  • 538年:一説に仏教、日本に伝来。(資料A1)
  • 552年:一説に仏教、日本に伝来。(資料A1)
  • 587年(用明2年):仏教崇敬の是非をめぐり、蘇我氏物部氏が合戦。(資料B1)
  • 592年(崇峻5年):崇峻天皇、弑逆される(資料B1)。崇峻天皇皇子蜂子皇子、東北に逃れるという。
  • 593年(推古1年)4月10日:聖徳太子推古天皇の摂政となる。(資料C1)
  • 593年(推古1年):蜂子皇子、出羽三山を開くという。(出羽三山神社ウェブサイト)
  • 594年(推古2年)2月1日:推古天皇、三宝興隆の詔を発する。(資料C1)
  • 634年(舒明6年)1月1日:役小角、大和国葛上郡芽原郷矢箱村(吉祥草寺)で生誕という。(資料W01)
  • 658年(斉明4年):役小角、箕面の瀧龍樹菩薩の出現を感得。龍樹から灌頂を受ける。(資料W01)
  • 667年(天智6年):天智天皇大津京遷都(資料A1)。崇福寺創建。このとき、日吉大社大神神社から大己貴神の分霊を招き、祀ったという(『日吉社禰宜口伝抄』資料D)。また天智天皇は夢告を得て念持仏の弥勒菩薩を祀る新たな寺院の創建を発願、計画は中断するが、のちの園城寺という(資料D、資料W01)。
  • 672年(弘文1年/天武1年):壬申の乱で天武天皇が勝利。一説にこの頃、園城寺創建。(『岩波仏教辞典第二版』、資料W01)
  • 686年(天武15年):一説に大友与多、屋敷を寄進して園城寺とする(『扶桑略記』)(資料D)
  • 694年(持統8年)12月4日:持統天皇藤原京に遷都。(資料C1)
  • 699年(文武3年)5月24日:後世に修験道開祖とされる役小角、伊豆大島に配流となる。(資料C1)
  • 701年(大宝1年)6月7日:役小角、箕面の天上ケ岳に登り、生母とともに昇天したという。異説あり。(資料W01)
  • 702年(大宝2年):泰澄、鎮護国家法師となる(資料C1)。
  • 710年(和銅3年)3月10日:元明天皇平城京に都を遷す。(資料C1)
  • 712年(和銅5年)1月28日:『古事記』成立。大山咋神(山末之大主神)が日枝山(比叡山)に鎮座しているとの記述。(『古事記』)
  • 717年(養老1年):泰澄、白山に入る。(資料C1)
  • 752年(天平勝宝4年)4月9日:東大寺大仏、開眼供養。(資料C1)
  • 766年(天平神護2年):勝道日光に入り、四本龍寺創建。(資料E)
  • 767年(神護景雲元年):最澄、近江国滋賀郡古市郷(生源寺の地)で生誕。(資料D)
  • 769年(神護景雲3年):宇佐神宮神託事件。(資料B1)
  • 770年(宝亀1年):粉河寺創建。(資料C1)
  • 782年(延暦1年):勝道、日光男体山に登頂。()

平安時代

  • 784年(延暦3年):桓武天皇長岡京遷都。(資料A1)
  • 784年(延暦3年):勝道日光中禅寺日光二荒山神社(現在の中宮祠)を創建。(資料E)
  • 788年(延暦7年)12月:最澄、比叡山寺(一乗止観院)を創建。(資料K)
  • 794年(延暦13年)10月24日:平安京遷都。(資料K)
  • 794年(延暦13年):円仁、下野国都賀郡で生誕。(資料D)
  • 796年(延暦15年):東寺西寺鞍馬寺を創建。(資料A1)
  • 796年(延暦15年):勤操石淵寺で法華八講を行う。法華八講の起源とされる。(『三宝絵』『岩波仏教辞典第二版』)
  • 802年(延暦21年):最澄、高雄山寺で五カ月に渡る法華会を開く。(資料D)
  • 804年(延暦23年):最澄入唐。空海も同時。(資料B1)
  • 806年(大同1年)1月26日:最澄、天台宗に2人の年分度者が認められる(資料C1)。これをもって日本天台宗の創始とする。
  • 819年:日光の四本龍寺、勅により満願寺と称す。(資料E)
  • 812年(弘仁3年)11月15日:空海、高雄山寺で金剛界結縁灌頂を行い、最澄これを受ける。(資料C1)
  • 812年10月18日:熊野別当を設置し、快慶を任命。(新宮市ウェブサイト)
  • 813年(弘仁4年)3月6日:空海、高雄山寺で金剛界灌頂を行い、最澄これを受ける。(資料C1)
  • 813年(弘仁4年)11月25日:最澄、空海に理趣経の借用を依頼するが拒否される。(資料C1)
  • 814年(弘仁5年)3月:最澄、宇佐八幡宮で法華経を講ずる。(資料C1)
  • 814年(弘仁5年)3月25日:円珍、和気宅成の子として讃岐国那珂郡金倉郷(金倉寺)で生誕。(資料W04)
  • 817年(弘仁8年):この年から821年(弘仁12年)まで、最澄と法相宗徳一が三一権実論争を行う。(『世界大百科事典』)
  • 817年(弘仁8年):勝道、死去。(資料E)
  • 818年(弘仁9年):最澄、従来の戒律を「小乗戒」として否定し、戒律を破棄。大乗戒を主張。「六条式」「八条式」を記し、翌年に成立した「四条式」とともに『山家学生式』と呼ばれる。『守護国界章』を記す。九院十六院の構想を表す。(『岩波仏教辞典第二版』資料D)
  • 818年(弘仁9年):円珍、5歳のとき、鬼子母神が出現し、守護することを託宣。(資料W04)
  • 822年(弘仁13年)6月4日:最澄、延暦寺中道房で死去。11日、大乗戒壇(延暦寺戒壇院)設立の許可。(資料C1)
  • 823年(弘仁14年)2月:比叡山寺を「延暦寺」と改める。この年6月、初めて最澄の報恩法要である「六月会」を勤修。(資料C1)
  • 823年(弘仁14年):円澄(のち第2代天台座主)、桓武天皇の招請で宮中紫宸殿で秘法を修す。延暦寺の御衣加持御修法(みしほ)の起源。(真言宗の後七日御修法は承和1年(834)創始)(資料D)
  • 824年(天長1年)6月22日:義真、初代天台座主となる。就任をめぐり義真と円澄が争う。(資料D、資料C1)
  • 829年(天長6年)9月29日:円仁、寿命が短いと感じ、比叡山の奥地に草庵を開く。横川地区および首楞厳院(横川中堂)の起源。(資料D、資料C1)
  • 833年(天長10年)4月15日:円珍、延暦寺で受戒。以後、比叡山で十二年籠山行(承和12年(846)まで)(資料C1)
  • 835年(承和2年):園城寺西南守護神として藤尾神社を創建。(資料W01)
  • 838年(承和5年):円仁、入唐。(資料B1)
  • 838年(承和5年)冬:円珍、洞窟で修行中に「黄不動」を感得。(『天台宗延暦寺座主円珍伝』、資料W01)
  • 840年(承和7年)7月5日:播磨国大道寺清妙寺観音寺を天台別院とする。(資料C1)
  • 845年(承和12年):十二年籠山行を終えた円珍、大峰山葛城山熊野三山を巡礼したという。那智の瀧で一千日の参籠修行をしたという。(資料W01)
  • 848年(嘉祥1年)3月26日:円仁、10年間の滞在を終え、帰国。(資料C1)(『岩波仏教辞典第二版』では前年。)
  • 848年(嘉祥1年):円仁、日光を訪れるという。(資料E)
  • 850年(嘉祥3年)3月:円仁、横川に根本観音堂(横川中堂)を創建。(資料B1)
  • 850年(嘉祥3年)春:円珍、山王明神の霊夢を見て、入唐を勧められる。翌年春にも出現。(資料W05)(資料W01では846年(承和13年)とする)
  • 850年(嘉祥3年):日光二荒山神社(現在の本社)を創建。(資料E)
  • 851年(仁寿1年)4月15日:円珍、入唐のため、京都を出発。海印寺で伯父道雄と面会。(資料W05)
  • 851年(仁寿1年)8月:円仁、常行三昧院を建立。延暦寺で初めて中国五台山伝来の引声念仏を行う。常行三昧の創始ともみなされる。比叡山浄土教、天台浄土教の創始。(資料D)(資料C1では865年8月11日~17日とする)
  • 853年(仁寿3年)7月16日:円珍、入唐。乗船。(資料C1、資料W05)
  • 858年(天安2年)6月19日:円珍、6年の滞在を終え帰国。肥前国松浦美旻楽崎に到着。22日に博多鴻臚館に到着。のち大宰府に移動し、四王院に滞在。(資料W05)
  • 859年(貞観1年):相応、修行の地を求め、比良山の奥地に入り、思古淵神の託宣を受け不動明王を感得し、葛川明王院を創建。比叡山修験の創始。(資料D)
  • 860年(貞観2年):円仁、立石寺を創建。(資料C1)
  • 860年(貞観2年)2月:円珍、新羅善神堂創建。(資料W05)
  • 862年(貞観4年)10月:円珍、園城寺別当に就任(資料W05)。園城寺復興に合わせて鬼子母神が再び出現、園城寺の守護神となり、鬼子母神堂に祀られる(資料W04)。貞観8年(866)春まで園城寺に滞在(資料W05)。
  • 864年(貞観6年)1月14日:円仁死去。(資料C1)
  • 864年(貞観6年)3月27日:最澄と空海に法印大和尚位を追贈。(資料C1)
  • 865年(貞観7年):相応、延暦寺に無動寺を創建。葛川明王院とともに比叡山修験の拠点となる。(資料D)
  • 866年(貞観8年)5月29日:円珍に真言・止観両宗弘伝の許可(公験)。現在、この日を天台寺門宗の開宗の日とする。(資料W01)
  • 866年(貞観8年)7月14日:最澄に「伝教大師」号、円仁に「慈覚大師」号が下賜される。(資料C1)
  • 868年(貞観10年)6月3日:円珍、第5代天台座主となる(資料C1)。同月、園城寺を伝法灌頂の道場とすることが認可され、請来経典を園城寺唐院に移す(資料W05)。
  • 868年(貞観10年):赤山明神が祀られる(『赤山明神縁起』資料K)
  • 879年(元慶3年):聖宝、吉野から熊野に至り、逆峰の入峰を始めるという。(新宮市ウェブサイト)
  • 880年(元慶4年):日吉大社の大宮(西本宮)、正一位となる。(資料D)
  • 883年(元慶7年)3月26日:円珍、法眼和尚位。天台僧綱の創始。(資料C1)
  • 887年(仁和3年):円珍、根本薬師堂・文殊堂・経蔵を一つに統合した根本中堂を建立。(資料D)
  • 890年(寛平2年)12月27日:天台座主円珍、少僧都となる。天台座主僧綱の始まり。(資料C1)
  • 907年(延喜7年)10月2日:宇多法皇、熊野行幸。熊野行幸の初見。(『日本紀略』資料K)
  • 907年(延喜7年):<中国>唐、滅亡。五代十国の時代へ。(資料A1)
  • 916年(延喜16年):金剛峰寺無空、『三十帖冊子』を携え、園城寺に隠れる。(資料C1)
  • 924年(延長2年)2月18日:新羅明神を比叡山赤山禅院の近くに祀る。(資料C1)
  • 927年(延長5年)12月27日:円珍に「智証大師」号下賜。(資料C1)
  • 927年(延長5年)12月:延喜式完成。()
  • 935年(承平5年)3月5日:比叡山、大火災。伽藍焼失。(資料D)
  • 936年(承平6年):<朝鮮>高句麗が朝鮮半島を統一。(資料A1)
  • 941年(天慶4年)8月:増賀、金峰山で修行中に地獄に赴き、菅原道真醍醐天皇に出会うという。(資料C1)
  • 948年(天暦2年)10月1日:多武峰寺法華八講恒例となる。このころ延暦寺末となる。(『多武峰略記』資料K)
  • 950年(天暦4年):良源、護持僧となり、憲仁親王(のちの冷泉天皇)誕生の祈祷を行う。その外祖父藤原師輔の庇護を得る。(資料D)
  • 960年(天徳4年):<中国>宋(北宋)興る。(資料A1)
  • 966年(康保3年)8月27日:良源、第8代天台座主。(資料C1)
  • 966年(康保3年)10月28日:比叡山で大火災。伽藍焼失。(資料D、資料C1)
  • 970年(天禄1年)7月:良源「二十六箇条制式」を制定。僧侶の武装を禁止していることから当時既に僧兵が出現しつつあったことが分かる。(資料D)
  • 970年(天禄1年)9月8日:金峰山寺、焼失。(資料C1)
  • 972年(天禄3年)1月:延暦寺の横川地区が東塔・西塔を並ぶ三塔の一つとして独立。(資料B1)
  • 979年(天元2年):藤原兼家、延暦寺横川に恵心院を創建。(資料B1)
  • 980年(天元3年)9月20日:良源、延暦寺根本中堂再建。円融天皇行幸。966年(康保3年)の火災で焼失した伽藍の復興がなる。(資料D)
  • 981年(天元4年)12月:円仁の弟子たちと円珍の弟子たちが、法性寺座主職を争い、円仁の弟子たちが勝つ。代々円仁系が就任してきたがこの年円珍系の鈴慶が就任した。これに円仁の弟子が抗議し鈴慶はすぐに辞任した。この騒動で円仁門徒と円珍門徒の対立が決定的となる。(資料D)
  • 985年(寛和1年)2月27日:藤原師輔の子尋禅が天台座主となる(資料C1)。貴族の天台座主就任の始まり。(資料B1)
  • 988年(永延2年):性空、書写山円教寺を創建。(資料C1)
  • 990年(正暦1年):尋禅、自坊の飯室谷の妙香院に父藤原師輔から与えられた荘園を寄進し、2月14日一条天皇の御願寺とした。同時に不動堂を建立し、これがのちの飯室不動堂となったとされる。(資料D資料C1)
  • 991年:花山法皇、熊野行幸。西国三十三所霊場を復興したとされる。(新宮市ウェブサイト)
  • 993年(正暦4年)8月8日:円仁系と円珍系の僧侶が争乱。円珍の門徒らが延暦寺を下り園城寺に入る。延暦寺千手院の円珍像を園城寺唐坊に奉遷。日本天台宗、延暦寺を本山とする山門派と園城寺を本山とする寺門派に別れる。(資料C1、資料W01)
  • 997年(長徳3年)9月:信弘・平山、鸚鵡花綬鏡を三仏寺に奉納。(資料B1)
  • 1003年(長保5年):多武峰寺増賀死去(資料A1)
  • 1007年(寛弘4年)3月10日:性空死去。(資料C1)
  • 1007年(寛弘4年)8月11日:藤原道長吉野参詣。金峰山の山頂に経筒を埋納。(資料C1)
  • 1014年(長和3年)7月:藤原頼通、吉野参詣。(資料B1)
  • 1025年(万寿2年)3月12日:日吉大社で山王礼拝講が始まる。延暦寺の僧侶が最澄の遺誡に背いたため山王権現がこの地を去ると託宣したので、神慮を慰めるために法華八講を始めたのが起源という。(「御礼拝講記」『耀天記』資料K資料D)
  • 1028年(長元1年)10月13日:金峰山寺僧徒、大和守藤原保昌の非法を訴える。(資料C1)
  • 1029年(長元2年)5月19日:金峰山寺検校を尋問。(資料C1)
  • 1039年(長暦3年)5月:園城寺、戒壇設置を請願。以後、200年以上にわたって請願を続ける。(資料B1)(資料C1では3月)
  • 1039年(長暦3年):明尊、円満院を創建。(資料D)
  • 1049年(永承4年)7月1日:藤原頼通、金峰山参詣。(資料C1)
  • 1049年(永承4年)10月27日:大僧都円縁、金峰山検校となる。(資料C1)
  • 1051年(永承6年):前九年の役始まる。源頼義、安倍氏征討にあたり園城寺新羅善神堂で戦勝祈願。(資料D)
  • 1052年(永承7年):この頃から末法思想が盛んとなる。(資料A1)
  • 1062年(康平5年):前九年の役終わる。源頼義は戦勝祈願の報賽のため、子を園城寺で出家させて快誉とした。また子の源義光は新羅善神堂前で元服し新羅三郎と呼ばれる。(資料D)
  • 1081年(永保1年)3月:多武峰寺、興福寺と対立を深める。5日、興福寺僧が多武峰の民家を焼く。25日多武峰の僧徒、京都に強訴。(資料C1)
  • 1081年(永保1年)4月:延暦寺と園城寺の抗争激化。分裂以後、最初の大きな争乱。大津浦の神人の貴族をめぐって争う。15日、園城寺僧徒、日吉祭を妨害。28日、延暦寺僧徒が園城寺を襲撃、放火してほとんどの伽藍が焼失。6月9日再び延暦寺が園城寺を襲撃。7月6日、園城寺、戒壇設置を請願。(『扶桑略記』『為房卿記』資料K資料D資料C1)
  • 1082年(永保2年)10月17日:熊野僧徒、神輿を奉じて入京。強訴。以降、各地の社寺の強訴が頻発。(『扶桑略記』資料K)
  • 1083年(永保3年)9月:後三年の役。(資料K)
  • 1083年:熊野信仰で「三所権現」の語、初出。この頃までには熊野三山が成立。(新宮市ウェブサイト)
  • 1084年(応徳1年)4月11日:園城寺金堂再建。(資料C1)
  • 1086年(応徳3年):白河上皇院政開始。院政時代の始まり。またこの頃から100年間にわたり熊野行幸が盛んとなる。白河上皇、鳥羽上皇、後白河上皇、後鳥羽上皇。(資料K)
  • 1090年(寛治4年)1月:白河上皇、熊野行幸。熊野三山検校を設置し、増誉を任命、聖護院創建。(資料B1)
  • 1093年(寛治7年)3月18日:熊野先達、禁中に乱入。(『中右記』資料K)
  • 1093年(寛治7年)11月3日:興福寺僧徒、金峰山寺を襲撃。(資料C1)
  • 1094年(嘉保1年)閏3月:伯耆大山伯耆・大山寺僧徒、上皇に天台座主を訴える(資料B1)
  • 1094年(嘉保1年)5月:英彦山僧徒、蜂起(資料C1)
  • 1096年(永長1年)3月10日:熊野本宮大社焼失。(資料C1)
  • 1096年(永長1年)3月18日:慈応、広く勧進写経を行い、金峰山寺に奉納。(資料C1)
  • 1097年(承徳1年)8月16日:皇太子誕生祈願のため、良意、金峰山で宸筆仁王経を供養。(資料C1)
  • 1101年(康和3年)4月:興福寺僧徒と金峰山寺僧徒が争う(資料B1)
  • 1103年:増誉、聖護院熊野神社創建(新宮市ウェブサイト)
  • 1108年(天仁1年)9月10日:多武峰寺、興福寺の焼き討ちを受ける。多武峰寺、延暦寺に支援を求め、南都北嶺の緊張が高まる。(資料D資料C1)
  • 1109年(天仁2年)5月:延暦寺僧徒、興福寺末の清水寺別当を訴える。(資料B1)
  • 1115年(永久3年)4月21日:日吉大社、初めて三宮の神輿を調進。山王七社成立の下限とされる。(『耀天記』資料K)
  • 1116年(永久4年)1月29日:増誉死去。(資料C1)
  • 1121年(保安2年)6月:白河法皇、熊野で一切経供養。(資料B1)
  • 1126年(大治1年)12月19日:鞍馬寺焼失。(資料C1)
  • 1127年(大治2年):<中国>南宋成立。(『岩波仏教辞典 第二版』)
  • 1129年11月20日:熊野新宮の僧徒、高野山の住民と合戦。熊野側4人死傷。(新宮市ウェブサイト)
  • 1145年(久安1年)7月:興福寺僧徒、金峰山を攻める。9月まで。(資料C1)
  • 1146年(久安2年)4月7日:加賀白山を延暦寺別院とする。(資料K)
  • 1146年(久安2年)4月25日:金峰山寺僧徒、大和宇智郡司と戦闘(資料C1)
  • 1147年(久安3年)4月7日:延暦寺衆徒、越前の白山神社を延暦寺末とするように請願(資料C1)
  • 1152年(仁平2年)5月:平清盛、大般若経を書写して伯耆の大山寺に奉納。(資料C1)
  • 1152年(仁平2年)9月:白山比咩神社、延暦寺末となる(資料B1)
  • 1153年(仁平3年):静誉を法橋とする。那智山僧綱の始め。(資料C1)
  • 1159年(平治1年)12月4日:平清盛、熊野参詣。(資料C1)
  • 1159年:行慶、園城寺に熊野神社を祀る。(新宮市ウェブサイト)
  • 1160年(永暦1年)10月16日:新熊野神社新日吉神社を創建。(『百錬抄』資料K)
  • 1160年:延暦寺本覚院昌雲、新日吉検校となり、妙法院を創建。(京都市ウェブサイト)
  • 1161年(応保1年):園城寺長吏覚忠、西国霊場を巡礼。西国霊場の最古の記録。(資料B1)
  • 1163年(長寛1年)4月7日:伊勢神宮と熊野権現が同体なのかを諮問。(「長寛勘文」資料C1)
  • 1169年(嘉応1年)4月21日:興福寺、金峰山寺衆徒の通行を妨害。(資料C1)
  • 1172年(承安2年)8月24日:多武峰寺、興福寺と不和。(資料C1)
  • 1174年(承安3年)6月25日:興福寺僧徒、多武峰寺を焼く。(資料C1)

鎌倉時代

南北朝時代

室町時代

江戸時代

近現代

参考文献

  • 資料A1:『岩波仏教辞典 第二版』年表
  • 資料A2:『岩波仏教辞典 第二版』(年表を除く)
  • 資料B1:『仏教文化事典』年表
  • 資料B2:『仏教文化事典』
  • 資料C1:『論集日本仏教史』年表
  • 資料D:『寺院神社大辞典 近江・若狭・越前』
  • 資料E:『古寺名刹大辞典』
  • 資料F:『新撰日本仏教年表』
  • 資料J:『天台真盛宗読本』
  • 資料H:宮家準2006「近現代の山岳宗教と修験道」
  • 資料K:『神道事典』
  • 資料L:『日本天台史』
  • 資料M:『デジタル版 日本人名大辞典+Plus』
  • 資料W01:園城寺ウェブサイト
  • 資料W02:天台寺門宗ウェブサイト
  • 資料W05:天台寺門宗ウェブサイト智証大師年譜
  • 資料W03:大正大学ウェブサイト
  • 資料W04:園城寺宗祖智証大師生誕1200年慶讃ウェブサイト
  • 資料G01:『太政類典』
  • 資料G02『法令全書』
  • 資料G03:『宗教制度調査*資料 江戸時代宗教制度年表』
  • 資料G04:『公文録』
http://shinden.boo.jp/wiki/%E4%BF%AE%E9%A8%93%E9%81%93%E3%81%AE%E5%B9%B4%E8%A1%A8」より作成

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