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吉田神社

出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-)

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吉田神社(よしだ・じんじゃ)は、京都府京都市左京区吉田神楽岡町(山城国愛宕郡)にある春日信仰の神社。吉田神道を唱えた社家の吉田家が神道管領長上を称し、中世から江戸時代末まで全国の神職を支配した。吉田神道の根本道場とされる大元宮がある。二十二社官幣中社別表神社。(参照:同名神社吉田神社_(同名)

目次

祭神

歴史

吉田山周辺(国土地理院空中写真より)
  • 859年(貞観1年)4月、藤原山蔭(824-888)が平城京春日大社を勧請し創建。この時、神霊は大和国より神鹿に乗って渡御したという。この時点ではまだ山蔭一門の氏神、家の鎮守社の性格が強かったとみられる。
  • 山蔭の外曽孫にあたる藤原詮子(東三条院)が円融天皇女御となり、その皇子が986年(寛和2年)に一条天皇として即位すると、外祖母の山蔭一門の地位も向上。同年12月17日、大原野神社に準じて4月中申日と11月中酉日の二季の吉田祭が公祭に定められた。987年(永延1年)11月に官祭の吉田祭が初めて営まれた(4月は?)。朝廷が公的に祭祀に関わるようになり、近衛使、中宮使、東宮使が差遣され、藤原氏長者が神馬を奉納するのが恒例となった。
  • 991年(正暦2年)、十九社奉幣(のちの二十二社)に正式に加えられた。これ以前から臨時に奉幣の対象となっていた。
  • 神職の長官は「預」と呼ばれ、鎌倉時代初期から卜部氏が世襲するようになる。確実な初見は卜部兼茂という。
  • 1206年(建永1年)3月19日、後鳥羽上皇が御幸。
  • 1235年(嘉禎1年)12月24日、伊勢石清水などと共に将軍九条頼経の病気平癒祈願の大般若転読・神楽奉納が行われた。1238年(暦仁1年)8月25日には将軍九条頼経が各社と合わせて参詣した。
  • 1255年(建長7年)6月5日、後嵯峨上皇が御幸。
  • 1336年(延元1年/建武3年)、若宮社の社殿を初めて造営。
  • 1360年(正平15年/延文5年)6月、正一位。
  • 1422年(応永29年)の一条兼良著『公事根元』には「春日の社と同体也、奈良の京の時は春日社、長岡の京の時は大原野、いまの平安城の時は吉田社也」として平城京の春日大社、長岡京の大原野神社と並べて吉田神社を平安京の守護神とする位置付けがみられる。さらに同書には「御堂の関白の法成寺と吉田社とをあがめ給ひし事は興福寺と春日社とにおもひよせられける」とある。
  • もともとの境内は現在より西400mくらいの地、今の吉田二本松町、京都大学総合人間学部あたりにあった。応仁の乱で、1468年(応仁2年)焼失したがすぐに再建できず、大元宮に合祀された。15世紀末に現在地に再建された。
  • 1484年(文明16年)、独自の神道説吉田神道を唱えた吉田兼倶大元宮を創建した。
  • 1511年(永正8年)、吉田兼倶死去。1513年(永正10年)神龍神社鎮座。
  • 1534年(天文3年)、社殿を再建。
  • 1590年(天正18年)、八神殿代を大元宮に設置。
  • 1609年(慶長14年)、神祇官代として伊勢例幣使の発遣の場となる。
  • 近世、590石。
  • 1648年(慶安1年)、本社社殿を改造。若宮社を現在地に遷座。
  • 1665年(寛文5年)7月、諸社禰宜神主法度が制定され、全国の神職は原則として吉田家の許状を受けることとされた。
  • 1672年(寛文12年)、四脚中門、御廊、神供所を改造。
  • 1708年(宝永5年)、宗源殿炎上。
  • 1816年(文化13年)、今宮社を現在地に造営。
  • 1840年(天保11年)、竹中稲荷神社を造営。
  • 1862年(文久2年)、赤木忠春が神楽岡の地を借り受け、京都・宗忠神社を創建。
  • 1865年(慶応1年)、吉田祭復興。
  • 1865年(慶応1年)、舞殿、直会殿、着到殿、行事所、竈神殿を造営。
  • 1870年(明治3年)2月9日、大奉幣社・大祭社以下の社格が定められた時には小祭社の3番目に列格。4月8日に神祇官直支配社と勅祭社に改変された時には勅祭社の5番目となった。
  • 1871年(明治4年)5月14日、官幣中社に列格(太政官御布告第235)。官幣中社としては4番目。1873年(明治6年)9月19日、官幣中社の順序が改定され第9位となるが、のち諸神社の異動で変わる(7番目?)。
  • 1872年(明治5年)、竹中稲荷神社、天満宮などを末社とする。
  • 1872年(明治5年)、大元宮の八神殿代を宮中に遷座。
  • 1876年(明治9年)12月15日、皇后が行啓。
  • 1877年(明治10年)、若宮社、神楽岡社を摂社と定める。
  • 戦後、神社本庁別表神社となる。
  • 1957年(昭和32年)、鎮座1100年祭。菓祖神社創建。また2年後に山蔭神社を創建。

境内

吉田神社本社周辺(国土地理院空中写真より)
吉田神社本社と大元宮(国土地理院空中写真より)
大元宮(国土地理院空中写真より)
大元宮周辺(国土地理院空中写真より)

本社周辺

  • 本社:1468年(応仁2年)兵火で焼失。1534年(天文3年)再建。1648年(慶安1年)改造。1911年(明治44年)、1936年(昭和11年)、1977年(昭和52年)修復。四脚中門、御廊、神供所、舞殿、直会殿、着到殿、行事所、竈神殿がある。
  • 若宮社:摂社。祭神は天忍雲根命。春日大社の若宮に倣ったものだろう。当初は社殿なしで本社第二殿と第三殿の間に祀られていたが、1336年(延元1年/建武3年)社殿造営。1648年(慶安1年)、現在地に遷座。1877年(明治10年)、吉田神社摂社に定められた。
  • 神龍社:末社。祭神は吉田兼倶(1435-1511)。1513年(永正10年)2月に鎮座。1880年(明治13年)末社となる。
  • 山蔭神社:祭神は藤原山蔭。相殿に恵比須神を祀る。藤原山蔭は吉田神社の創設者であると共に、日本料理道の祖ともされる。1957年(昭和32年)、吉田神社鎮座1100年大祭を機に全国料理関係者の協賛を得て1959年(昭和34年)5月に創建された。
  • 菓祖神社:祭神は田道間守命と林浄因命。相殿に菓子関係功労者の霊を祀る。京都菓子業会の総意により菓祖神社創建奉賛会を設立し、1957年(昭和32年)11月11日、中嶋神社橘本神社林神社の祭神を鎮祭した。逐次、菓子関係功労者の霊を相殿に合祀している。
  • 今宮社:末社。祭神は大己貴神大雷神健速須佐之男命。鎮座年代は不詳。1215年(建保3年)の『吉田小神社註進状』に名前がある。1816年(文化13年)、現在地に造営された。木瓜大明神。吉田町の氏神。
  • 稲荷社:末社。祭神は宇賀御魂神猿田彦神天鈿女神。創建不詳。在原業平の屋敷が神楽岡の稲荷神社の近くに建てたと古記にあり、古代からあったとされる。江戸時代末期に京都の子女が群参したといい流行り神として一躍信仰を集めたようだ。その結果、1840年(天保11年)、社殿を造営。1872年(明治5年)末社に定められた。竹中稲荷講社がある。竹中稲荷社。
  • 稲荷小社:末社。祭神は宇賀御魂神・猿田彦神・天鈿女神。吉田山の東麓にあったのを1872年(明治5年)に竹中稲荷神社境内に遷座し、末社とした。
  • 天満宮:末社。祭神は菅原道真。元は地福院にあった。1852年(嘉永5年)に現在地に遷座。1872年(明治5年)に末社に定められた。
  • 神楽岡社:摂社。祭神は大雷神・大山祇神高〓神。鎮座年代は不詳。『延喜式』に式内社(官社)とは別に「霹靂神、神楽岡坐す」とあるのに該当すると考えられている。神楽岡の地主神とされる。1877年(明治10年)摂社となる。
  • 三社社:末社。祭神は多紀理毘売命・狭依毘売命・多岐津毘売命・金山毘古命・金山毘売命・菅原神。もとは吉田家の邸内にあったのを1844年(弘化1年)現在地に遷座。1872年(明治5年)に末社に定められた。
  • 祖霊社:
  • 竈神殿:境内社には数えられていないようだ。

大元宮周辺

  • 大元宮:末社。1484年(文明16年)、吉田家邸から遷座。
  • 東神明社:祭神は天照皇大神。
  • 西神明社:祭神は豊受比売神。
  • 吉田家八神殿代:1590年(天正18年)創建。廃絶。
  • 東西諸神社:式内神3132座。

その他

  • 吉田家邸
  • 宗源殿:吉田家邸にあった。
  • 吉田家御霊屋:吉田家邸にあった。
  • 宗忠神社
  • 神光霊社
  • 須賀神社:京都府京都市左京区聖護院円頓美町。祭神は須佐之男命・櫛稲田比売命・久那斗神・八衢比古神・八衢比売神。現在の平安神宮内の西天王塚の場所にあったが、1332年(元弘2年/正慶1年)に吉田神楽岡に遷座。近世には今宮社のそばにあった。1924年(大正13年)に御旅所があった現在地に遷座した。西天王社。
  • 豊国神社:1619年(元和5年)12月11日、梵舜は「豊国鎮守」の「璽」を移し、神龍院の鎮守として豊国大明神を祀ったという。梵舜の死去まで毎月18日に神事があり、高台院から神供があった。[1]
  • 吉田山神道墓地
  • 神龍院:吉田兼倶の子の九江妙亀が創建。臨済宗南禅寺末。廃絶。
  • 神光院:本尊は阿弥陀如来。臨済宗。吉田兼熙(1348-1402)の位牌所。神光寺とも。廃絶。
  • 神恩院:吉田兼好が住んだ旧跡という。吉田兼名の位牌所。吉田兼倶の子の教誉が住した。 廃絶。
  • 敬田寺:臨済宗。兀庵普寧が中興。廃絶。
  • 新長谷寺:本尊は千手観音。藤原山蔭が自邸を寄進して創建したと伝える。千手観音は山蔭が大和国長谷寺に参詣した時に出現した童子が彫ったものという。唐より請来の栴檀を用いたもので、同じく山蔭創建の摂津・総持寺の本尊と「同じ霊像」という。近くの真正極楽寺に移転して現存。
  • 智福院:本尊は虚空蔵菩薩。廃絶。
  • 明星院:大元宮の門前の東方にあったという。明星水または落星水という井戸があったが埋められたという。廃絶。
  • 吉田寺:本尊は観音。廃絶。この観音は吉備真備作と伝え、のち金戒光明寺に遷されたという。
  • 南松院:廃絶。
  • 性功徳院:廃絶。
  • 浄宝寺

組織

大宮司・宮司

  • 飛鳥井雅典()<1871-1872>:1871年(明治4年)12月2日から1872年(明治5年)3月25日まで「日吉神社、梅宮神社、大原野神社、吉田神社等御改革御用掛」。
  • 角田信道(1846-1884)<-1878>:角田忠行の弟。:(略歴は広田神社#組織を参照)
  • 乾満昭(1835-1907)<1878-1879>:薩摩国出身。1835年(天保6年)生。1878年(明治11年)2月1日、吉田神社宮司。1879年(明治12年)9月4日、気多神社宮司。1907年(明治40年)3月18日死去。73歳。(略歴は、若狭彦神社#組織を参照)
  • 吉田良義(1837-1890)<1879-1884?>:幕末維新期の吉田家当主。(略歴は、吉田家#組織を参照)
  • 多村知興()<1883-1884>:1874年(明治7年)10月31日、吉田神社権宮司。権宮司廃止につき1877年(明治10年)12月18日、吉田神社禰宜。1883年(明治16年)3月24日、吉田神社宮司。1884年(明治17年)10月24日、伊太祁曽神社宮司。(略歴は、賀茂別雷神社#組織を参照)
  • 鳥居亮信(1836-1906?)<1891-1906?>:在職で死去か?(略歴は、八坂神社#組織を参照)
  • 阿知和安彦(1873-?)<1906-1912>:1906年(明治39年)12月27日から1912年(大正1年)4月5日まで吉田神社宮司。(略歴は朝鮮神宮#組織を参照)
  • 橋本順行()<>:(略歴は梅宮大社#組織を参照)
  • 森口奈良吉(1875-1968)<1931-1934>:奈良県小川村出身。1875年(明治8年)生。県尋常師範学校卒。教員を務めた後、1921年(大正10年)、春日大社禰宜となる。1931年(昭和6年)6月、吉田神社宮司。1934年(昭和9年)、宇都宮二荒山神社宮司。1936年(昭和11年)、建部神社宮司。1947年(昭和22年)1月、春日大社権宮司。1948年(昭和23年)12月退職。業績としては丹生川上神社の旧地考証が何よりも知られている。研究成果を受けて小川村の蟻通神社が丹生川上神社に定められた。『春日神社小志』(勝部月子「奈良の近代: 国際遊覧都市奈良を支えた花街・元林院」)
  • 香西大見(1898-1979)<1943-1946>:(略歴は、北野天満宮#組織を参照)
  • 矢田収蔵(1980-1959)<1952-1956>:1952年(昭和27年)吉田神社宮司。1956年(昭和31年)大原野神社宮司。(略歴は照国神社#組織を参照)
  • 大爺恒夫()<>:北野天満宮権宮司。貴船神社宮司。
  • 沢井隆男(1950-)<>:国学院大学卒。石清水八幡宮に奉職。1989年(平成1年)に吉田神社権宮司となる。澤井隆男。

画像

資料

  • 『古事類苑』「吉田神社」[2]
  • 1913『吉田神社志』[3]
http://shinden.boo.jp/wiki/%E5%90%89%E7%94%B0%E7%A5%9E%E7%A4%BE」より作成

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