ようこそ『神殿大観』へ。ただいま試験運用中です。

東照宮信仰

出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-)

(版間での差分)
移動: 案内, 検索
(?歴史)
(?徳川家康年譜)
33行: 33行:
==歴史==
==歴史==
===徳川家康年譜===
===徳川家康年譜===
-
*1542年(天文11年)12月26日:岡崎城内で誕生。幼名は竹千代。父は岡崎城主の松平広忠。母は水野忠政娘の於大の方(伝通院)。この誕生は両親が鳳来寺に祈願した霊験だとし、同寺に鳳来山東照宮が建てられた。生誕地岡崎を記念する形で瀧山寺に瀧山東照宮が建てられ、近代に岡崎城に龍城神社が建てられた。竹千代の名は時宗称名寺の住職が名付けたとされ、同寺に大浜東照宮がある。幼少の頃には浄土宗法蔵寺で勉学に励んだとされ、法蔵寺東照宮が建てられた。
+
*1542年(天文11年)12月26日:岡崎城内で誕生。幼名は竹千代。父は岡崎城主の松平広忠。母は水野忠政娘の於大の方(伝通院)。この誕生は両親が[[鳳来寺]]に祈願した霊験だとし、同寺に[[鳳来山東照宮]]が建てられた。生誕地岡崎を記念する形で[[天台宗]][[瀧山寺]]に[[瀧山東照宮]]が建てられ、近代に岡崎城に[[龍城神社]]が建てられた。竹千代の名は[[時宗]][[三河・称名寺|称名寺]]の住職が名付けたとされ、同寺に[[大浜東照宮]]がある。幼少の頃には[[浄土宗]][[法蔵寺]]で勉学に励んだとされ、[[法蔵寺東照宮]]が建てられた。
-
*1547年(天文16年):今川義元のもとに人質となる途中に織田信長勢に捕縛され、安祥城で過ごす。
+
*1547年(天文16年):今川義元のもとに人質となる途中に[[織田信長]]勢に捕縛され、安祥城で過ごす。
-
*1549年(天文18年):父の松平広忠が死去。織田氏と今川氏の間の人質交換で、今川義元の人質となる。
+
*1549年(天文18年):父の松平広忠が死去。[[織田氏]]と[[今川氏]]の間の人質交換で、今川義元の人質となる。
*1555年(弘治1年):元服。元信と名乗る。今川義元の名の一字をいただく。
*1555年(弘治1年):元服。元信と名乗る。今川義元の名の一字をいただく。
*1557年(弘治3年):築山殿と結婚。
*1557年(弘治3年):築山殿と結婚。
*1558年(永禄1年)頃:初陣。この頃、元康と改名。
*1558年(永禄1年)頃:初陣。この頃、元康と改名。
-
*1560年(永禄3年)5月20日:桶狭間合戦。今川義元死去。この時、菩提寺の大樹寺に逃れた時、怪力の僧侶が材木を振り回して危機から救った。この材木は「貫木神」として神格化され、同寺で祀られている。また大樹寺住職から自刃を思い留められたといい、大樹寺東照宮も建てられた。織田信長と同盟を結ぶ。今川氏から独立して岡崎に入城。
+
*1560年(永禄3年)5月20日:桶狭間合戦。今川義元死去。この時、菩提寺の[[大樹寺]]に逃れた時、怪力の僧侶が材木を振り回して危機から救った。この材木は「貫木神」として神格化され、同寺で祀られている。また大樹寺住職から自刃を思い留められたといい、[[大樹寺東照宮]]も建てられた。織田信長と同盟を結ぶ。今川氏から独立して岡崎に入城。
*1562年(永禄5年):清洲で織田信長と会見。
*1562年(永禄5年):清洲で織田信長と会見。
*1563年(永禄6年)7月:家康と改名。
*1563年(永禄6年)7月:家康と改名。
-
*1563年(永禄6年)9月:三河一向一揆、勃発。家臣団に亀裂が生じる。
+
*1563年(永禄6年)9月:[[三河一向一揆]]、勃発。家臣団に亀裂が生じる。
*1564年(永禄7年)春:三河一向一揆を平定。三河全体の支配権を確立。
*1564年(永禄7年)春:三河一向一揆を平定。三河全体の支配権を確立。
*1566年(永禄9年)12月:勅許を得て松平から徳川に変える。従五位下三河守。
*1566年(永禄9年)12月:勅許を得て松平から徳川に変える。従五位下三河守。
-
*1568年(永禄11年):武田信玄との協定により弱体化した今川氏を攻略。遠江国を所領に加える。この時滞在した引間城跡に後に浜松東照宮が建てられた。
+
*1568年(永禄11年):[[武田信玄]]との協定により弱体化した今川氏を攻略。遠江国を所領に加える。この時滞在した引間城跡に後に[[浜松東照宮]]が建てられた。
*1570年(元亀1年):上洛。
*1570年(元亀1年):上洛。
*1570年(元亀1年):浜松城築城。
*1570年(元亀1年):浜松城築城。
-
*1570年(元亀1年)6月:姉川の合戦。浅井・朝倉連合軍を破る。武田信玄との同盟を解消。
+
*1570年(元亀1年)6月:姉川の合戦。浅井朝倉連合軍を破る。武田信玄との同盟を解消。
*1572年(元亀3年)12月:三方原の戦いで武田信玄に大敗する。
*1572年(元亀3年)12月:三方原の戦いで武田信玄に大敗する。
*1575年(天正3年):長篠の戦いで武田勝頼を破る。
*1575年(天正3年):長篠の戦いで武田勝頼を破る。
54行: 54行:
*1582年(天正10年):織田信長の武田氏征伐に貢献。その恩賞として徳川家康は駿河国を手に入れる。
*1582年(天正10年):織田信長の武田氏征伐に貢献。その恩賞として徳川家康は駿河国を手に入れる。
*1582年(天正10年):本能寺の変。堺にいたが、伊賀越をして帰国。
*1582年(天正10年):本能寺の変。堺にいたが、伊賀越をして帰国。
-
*1582年(天正10年)8月:北条氏直と甲斐国若神子で対立。その旧跡に甲府東照宮や右左口東照宮がある。講和して甲斐国と信濃国を手に入れる。駿河・遠江・三河・甲斐・信濃の5カ国を支配する。
+
*1582年(天正10年)8月:北条氏直と甲斐国若神子で対立。その旧跡に[[甲府東照宮]]や[[右左口東照宮]]がある。講和して甲斐国と信濃国を手に入れる。駿河・遠江・三河・甲斐・信濃の5カ国を支配する。
-
*1584年(天正12年):小牧・長久手の戦いで豊臣秀吉軍を破るが講和。以後、豊臣氏の一大名として政権の樹立に貢献する。
+
*1584年(天正12年):小牧・長久手の戦いで[[豊臣秀吉]]軍を破るが講和。以後、[[豊臣氏]]の一大名として政権の樹立に貢献する。
*1586年(天正14年):豊臣秀吉の妹の朝日姫を継室に迎える。
*1586年(天正14年):豊臣秀吉の妹の朝日姫を継室に迎える。
-
*1586年(天正14年)12月:本拠地を駿府に移す。[[駿河・東雲神社]]がある。
+
*1586年(天正14年)12月:本拠地を駿府に移す。駿府城跡に[[駿河・東雲神社]]がある。
*1587年(天正15年):従二位権大納言。
*1587年(天正15年):従二位権大納言。
-
*1590年(天正18年):豊臣秀吉の小田原征伐に参戦。陣地として場所に小田原東照宮が建てられた。
+
*1590年(天正18年):豊臣秀吉の小田原征伐に参戦。陣地跡に[[小田原東照宮]]が建てられた。
-
*1590年(天正18年)8月1日:江戸城に入城。
+
*1590年(天正18年)8月1日:[[江戸城]]に入城。
-
*1590年(天正18年):府中御殿を造営。府中東照宮が建てられた。
+
*1590年(天正18年):府中御殿を造営。[[府中東照宮]]が建てられた。
*1591年(天正19年):陸奥岩手沢に出陣
*1591年(天正19年):陸奥岩手沢に出陣
-
*1593年(文禄2年):鴻巣御殿を造営。跡地に鴻巣東照宮があった。
+
*1593年(文禄2年):鴻巣御殿を造営。跡地に[[鴻巣東照宮]]があった。
-
*1592年(文禄1年):肥前に赴く途中、中原御殿に滞在。跡地に中原東照宮がある。
+
*1592年(文禄1年):肥前に赴く途中、中原御殿に滞在。跡地に[[中原東照宮]]がある。
*1592年(文禄1年):文禄の役で肥前名護屋に滞在。
*1592年(文禄1年):文禄の役で肥前名護屋に滞在。
-
*1595年(文禄4年):この頃、・毛利輝元・前田利家・宇喜多秀家・上杉景勝と共に五大老となりその筆頭となる。
+
*1595年(文禄4年):この頃、毛利輝元・前田利家・宇喜多秀家・上杉景勝と共に五大老となりその筆頭となる。
-
*1596年(慶長1年):正二位内大臣。
+
*1596年(慶長1年):正二位。内大臣。
*1598年(慶長3年)8月:豊臣秀吉死去。
*1598年(慶長3年)8月:豊臣秀吉死去。
*1599年(慶長4年):伏見城に入る。「天下殿」になったと評される。
*1599年(慶長4年):伏見城に入る。「天下殿」になったと評される。
*1600年(慶長5年):関ケ原合戦
*1600年(慶長5年):関ケ原合戦
-
*1602年(慶長7年):二条城を築城。
+
*1602年(慶長7年):[[二条城]]を築城。
-
*1603年(慶長8年)2月12日:伏見城で征夷大将軍の宣旨を受ける。従一位右大臣。
+
*1603年(慶長8年)2月12日:伏見城で[[征夷大将軍]]の宣旨を受ける。従一位右大臣。
*1603年(慶長8年)3月:諸大名に命じて江戸城下町の整備を始める。
*1603年(慶長8年)3月:諸大名に命じて江戸城下町の整備を始める。
-
*1605年(慶長10年)4月16日:将軍職を徳川秀忠に譲る
+
*1605年(慶長10年)4月16日:将軍職を[[徳川秀忠]]に譲る。
*1607年(慶長12年):駿府に移る。
*1607年(慶長12年):駿府に移る。
*1611年(慶長16年):二条城で豊臣秀頼と会見。
*1611年(慶長16年):二条城で豊臣秀頼と会見。
-
*1614年(慶長19年):大坂冬の陣
+
*1614年(慶長19年):大坂冬の陣。
*1615年(元和1年):大坂夏の陣。引き続き京都に滞在。
*1615年(元和1年):大坂夏の陣。引き続き京都に滞在。
-
*1615年(元和1年):武家諸法度、禁中並公家諸法度制定
+
*1615年(元和1年):武家諸法度、禁中並公家諸法度など制定。
-
*1615年(元和1年)11月:東金での鷹狩の帰りに船橋御殿に滞在。その跡地に船橋東照宮がある。
+
*1615年(元和1年)11月:東金での鷹狩の帰りに船橋御殿に滞在。その跡地に[[船橋東照宮]]がある。
*1616年(元和2年)3月:太政大臣。
*1616年(元和2年)3月:太政大臣。
-
*1616年(元和2年)4月17日:駿府城で死去。久能山に埋葬。
+
*1616年(元和2年)4月17日:駿府城で死去。[[久能山]]に埋葬。
 +
 
===東照宮信仰の歴史===
===東照宮信仰の歴史===

2023年8月5日 (土) 時点における版

東照宮信仰 

目次

概要

東照大権現徳川家康東照大神)は、徳川家の祖神・守護神であり、日本国と首都江戸東京)の守護神であり、天台宗の護法神である。延暦寺寛永寺の本尊である薬師如来を本地仏とした。総本社は日光東照宮であり、久能山東照宮がそれに準ずる。安国院殿


歴史

徳川家康年譜

  • 1542年(天文11年)12月26日:岡崎城内で誕生。幼名は竹千代。父は岡崎城主の松平広忠。母は水野忠政娘の於大の方(伝通院)。この誕生は両親が鳳来寺に祈願した霊験だとし、同寺に鳳来山東照宮が建てられた。生誕地岡崎を記念する形で天台宗瀧山寺瀧山東照宮が建てられ、近代に岡崎城に龍城神社が建てられた。竹千代の名は時宗称名寺の住職が名付けたとされ、同寺に大浜東照宮がある。幼少の頃には浄土宗法蔵寺で勉学に励んだとされ、法蔵寺東照宮が建てられた。
  • 1547年(天文16年):今川義元のもとに人質となる途中に織田信長勢に捕縛され、安祥城で過ごす。
  • 1549年(天文18年):父の松平広忠が死去。織田氏今川氏の間の人質交換で、今川義元の人質となる。
  • 1555年(弘治1年):元服。元信と名乗る。今川義元の名の一字をいただく。
  • 1557年(弘治3年):築山殿と結婚。
  • 1558年(永禄1年)頃:初陣。この頃、元康と改名。
  • 1560年(永禄3年)5月20日:桶狭間合戦。今川義元死去。この時、菩提寺の大樹寺に逃れた時、怪力の僧侶が材木を振り回して危機から救った。この材木は「貫木神」として神格化され、同寺で祀られている。また大樹寺住職から自刃を思い留められたといい、大樹寺東照宮も建てられた。織田信長と同盟を結ぶ。今川氏から独立して岡崎に入城。
  • 1562年(永禄5年):清洲で織田信長と会見。
  • 1563年(永禄6年)7月:家康と改名。
  • 1563年(永禄6年)9月:三河一向一揆、勃発。家臣団に亀裂が生じる。
  • 1564年(永禄7年)春:三河一向一揆を平定。三河全体の支配権を確立。
  • 1566年(永禄9年)12月:勅許を得て松平から徳川に変える。従五位下三河守。
  • 1568年(永禄11年):武田信玄との協定により弱体化した今川氏を攻略。遠江国を所領に加える。この時滞在した引間城跡に後に浜松東照宮が建てられた。
  • 1570年(元亀1年):上洛。
  • 1570年(元亀1年):浜松城築城。
  • 1570年(元亀1年)6月:姉川の合戦。浅井朝倉連合軍を破る。武田信玄との同盟を解消。
  • 1572年(元亀3年)12月:三方原の戦いで武田信玄に大敗する。
  • 1575年(天正3年):長篠の戦いで武田勝頼を破る。
  • 1579年(天正7年):武田氏に内通している疑いを織田信長に掛けられ、築山殿と信康を殺害。
  • 1582年(天正10年):織田信長の武田氏征伐に貢献。その恩賞として徳川家康は駿河国を手に入れる。
  • 1582年(天正10年):本能寺の変。堺にいたが、伊賀越をして帰国。
  • 1582年(天正10年)8月:北条氏直と甲斐国若神子で対立。その旧跡に甲府東照宮右左口東照宮がある。講和して甲斐国と信濃国を手に入れる。駿河・遠江・三河・甲斐・信濃の5カ国を支配する。
  • 1584年(天正12年):小牧・長久手の戦いで豊臣秀吉軍を破るが講和。以後、豊臣氏の一大名として政権の樹立に貢献する。
  • 1586年(天正14年):豊臣秀吉の妹の朝日姫を継室に迎える。
  • 1586年(天正14年)12月:本拠地を駿府に移す。駿府城跡に駿河・東雲神社がある。
  • 1587年(天正15年):従二位権大納言。
  • 1590年(天正18年):豊臣秀吉の小田原征伐に参戦。陣地跡に小田原東照宮が建てられた。
  • 1590年(天正18年)8月1日:江戸城に入城。
  • 1590年(天正18年):府中御殿を造営。府中東照宮が建てられた。
  • 1591年(天正19年):陸奥岩手沢に出陣
  • 1593年(文禄2年):鴻巣御殿を造営。跡地に鴻巣東照宮があった。
  • 1592年(文禄1年):肥前に赴く途中、中原御殿に滞在。跡地に中原東照宮がある。
  • 1592年(文禄1年):文禄の役で肥前名護屋に滞在。
  • 1595年(文禄4年):この頃、毛利輝元・前田利家・宇喜多秀家・上杉景勝と共に五大老となりその筆頭となる。
  • 1596年(慶長1年):正二位。内大臣。
  • 1598年(慶長3年)8月:豊臣秀吉死去。
  • 1599年(慶長4年):伏見城に入る。「天下殿」になったと評される。
  • 1600年(慶長5年):関ケ原合戦
  • 1602年(慶長7年):二条城を築城。
  • 1603年(慶長8年)2月12日:伏見城で征夷大将軍の宣旨を受ける。従一位右大臣。
  • 1603年(慶長8年)3月:諸大名に命じて江戸城下町の整備を始める。
  • 1605年(慶長10年)4月16日:将軍職を徳川秀忠に譲る。
  • 1607年(慶長12年):駿府に移る。
  • 1611年(慶長16年):二条城で豊臣秀頼と会見。
  • 1614年(慶長19年):大坂冬の陣。
  • 1615年(元和1年):大坂夏の陣。引き続き京都に滞在。
  • 1615年(元和1年):武家諸法度、禁中並公家諸法度など制定。
  • 1615年(元和1年)11月:東金での鷹狩の帰りに船橋御殿に滞在。その跡地に船橋東照宮がある。
  • 1616年(元和2年)3月:太政大臣。
  • 1616年(元和2年)4月17日:駿府城で死去。久能山に埋葬。

東照宮信仰の歴史

系譜

徳川家康旧跡

  • 龍城神社:愛知県岡崎市康生町。徳川家康生誕地の岡崎城にある
  • 瀧山東照宮:愛知県岡崎市滝町。幕府が岡崎城近くの瀧山寺に創建。
  • 鳳来山東照宮:愛知県新城市門谷鳳来寺。徳川家康の父母が子授けを鳳来寺に祈願。
  • 法蔵寺東照宮:愛知県岡崎市本宿町寺山。法蔵寺は、幼少のころ勉学に励んだ寺という。
  • 大樹寺東照宮:愛知県岡崎市鴨田町。大樹寺は松平家の菩提寺で、家康は主君今川家が討たれたときにここで自害しようとしたという。
  • 浜松東照宮:静岡県浜松市中区元城町。家康が遠江攻略後に滞在した引間城跡にある。
  • 甲府東照宮:山梨県甲府市宮前町。甲府八幡神社にある小祠。甲斐攻略後に家康が八幡神社に参詣したという。
  • 右左口東照宮:山梨県甲府市右左口町。家康が甲斐攻略後に滞在した右左口御陣場跡に建てられた。
  • 新府東照宮
  • 小田原東照宮:神奈川県小田原市寿町。豊臣軍の小田原攻略で徳川家康が陣場とした地に創建
  • 紅葉山東照宮:東京都千代田区千代田。家康の居城江戸城に建てられた東照宮。
  • 二条城:東照宮があったとしても不思議ではないが確認できず。
  • 船橋東照宮:千葉県船橋市本町。一度だけ泊まった船橋御殿に建てられた。
  • 鴻巣東照宮:埼玉県鴻巣市本町。何度か泊まった鴻巣御殿に建てられた東照宮。鴻神社に合祀されたが小祠がある。
  • 中原東照宮:神奈川県平塚市御殿。中原御殿に建てられた東照宮。神柩遷座旧跡でもある。
  • 府中東照宮:東京都府中市宮町。府中御殿に建てられた東照宮。神柩遷座旧跡でもある。大国魂神社内。
  • 駿河・東雲神社:静岡県静岡市葵区丸山町。駿府城にあった東照宮。駿府城は家康死去の地。
  • 久能山東照宮:静岡県静岡市駿河区根古屋。墓
  • 日光東照宮:栃木県日光市山内。墓

主要東照宮



画像

参考文献

脚注

http://shinden.boo.jp/wiki/%E6%9D%B1%E7%85%A7%E5%AE%AE%E4%BF%A1%E4%BB%B0」より作成

注意事項

  • 免責事項:充分に注意を払って製作しておりますが、本サイトを利用・閲覧した結果についていかなる責任も負いません。
  • 社寺教会などを訪れるときは、自らの思想信条と異なる場合であっても、宗教的尊厳に理解を示し、立入・撮影などは現地の指示に従ってください。
  • 当サイトの著作権は全て安藤希章にあります。無断転載をお断りいたします(いうまでもなく引用は自由です。その場合は出典を明記してください。)。提供されたコンテンツの著作権は各提供者にあります。
  • 個人用ツール