Warning: Parameter 3 to GoogleMaps::render16() expected to be a reference, value given in /home/users/2/boo.jp-shinden/web/wiki/includes/parser/Parser.php on line 3333
四天王寺 - SHINDEN

ようこそ『神殿大観』へ。ただいま試験運用中です。

四天王寺

出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-)

(版間での差分)
移動: 案内, 検索
(?画像)
(?資料)
1,603行: 1,603行:
*四天王寺伽藍記[https://www.google.co.jp/books/edition/%E5%9B%9B%E5%A4%A9%E7%8E%8B%E5%AF%BA%E4%BC%BD%E8%97%8D%E8%A8%98/iJtGAQAAMAAJ?gbpv=1]
*四天王寺伽藍記[https://www.google.co.jp/books/edition/%E5%9B%9B%E5%A4%A9%E7%8E%8B%E5%AF%BA%E4%BC%BD%E8%97%8D%E8%A8%98/iJtGAQAAMAAJ?gbpv=1]
*山崎竜洋2012「近世四天王寺における寺院社会構造」
*山崎竜洋2012「近世四天王寺における寺院社会構造」
 +
*1939『大阪府史蹟名勝天然紀念物調査報告10』:四天王寺石鳥居の調査報告
 +
*1940『荒陵余薫』[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1266063/]:仏像などの写真
 +
===別当次第===
===別当次第===

2022年1月25日 (火) 時点における版

四天王寺
してんのうじ
概要
奉斎
所在地 大阪府大阪市天王寺区四天王寺1-11-18
所在地(旧国郡) 摂津国東成郡
所属(現在) 和宗
格式など 和宗総本山
関連記事


目次

概要

四天王寺(してんのうじ)は、大阪府大阪市天王寺区にある聖徳太子ゆかりの天台宗本山寺院和宗総本山。古代の官寺十五大寺・十大寺の一つ。中世には浄土教の聖地となり、一遍は1274年(文永11年)に遊行の最初の巡礼地として参拝している。聖徳太子建立四十六寺の一つ。四天王寺関連旧跡も参照。(参考:同名寺院天王寺

歴史

  • 587年:聖徳太子、物部守屋討伐の時に四天王に誓願を立てる。(日本書紀)
  • 587年:一説に玉造の地に四天王寺を創建。物部守屋から没収した河内・摂津の土地を施入したという。
  • 593年(推古1年):四天王寺創建。(日本書紀)
  • 623年(推古31年):新羅大使が献上した金塔・舎利・幡などを寄進。(日本書紀)
  • 645年(大化1年)12月、:孝徳天皇難波宮(長柄豊碕宮)に遷都。四天王寺が重視される。654年(白雉5年)10月10日の崩御で、都は飛鳥に戻る。
  • 648年(大化4年)2月:左大臣阿倍倉梯麻呂、五重塔に霊鷲山像や四天王像(小四天王)などを祀る。(日本書紀)
  • 天智天皇時代:天智天皇斉明天皇の追善のため四天王寺金堂に弥勒菩薩像を祀り、五重塔に大四天王を作らせた(大同縁起)。金堂本尊の元来の尊格は不明だがのちに救世観音、如意輪観音とされるようになる。
  • 701年(大宝1年):伝承によると、青面金剛童子が出現。庚申堂に祀られる。
  • 703年(大宝3年):2月17日:朝廷、持統天皇四十九日法要のため四天王寺に使者を遣わす(続日本紀)
  • 731年(天平3年)10月:朝廷、寺封50戸を施入(新抄格勅符抄)
  • 734年(天平6年)3月15日:朝廷、食封200戸を3年限りで施入(続日本紀)
  • 744年(天平16年)2月:聖武天皇難波京に遷都。翌年5月まで。
  • 749年(天平感宝1年/天平勝宝1年)閏5月20日:朝廷、華厳経など一切経転読講説のため「あしぎぬ300疋・綿1000屯・布600端・稲10万束・墾田地100町」施入。
  • 天平勝宝年間(749-757):聖霊院建立(太子伝古今目録抄)。聖霊院自体は法隆寺のほうが古いが、絵堂の成立は四天王寺のほうが先で、最古の聖徳太子絵伝が作られる(現存せず)。
  • 767年(神護景雲1年)11月:播磨国餝磨郡の寺田250町が収公されたが代わりに大和・山背・摂津・越中・播磨・美作などの乗田および没官田が施入された。
  • 770年(宝亀1年):称徳天皇、三重小塔百万基を造立し、諸寺に納めたが、四天王寺には2万基が割り当てられ小塔院(のちの万塔院)に納められた(大同縁起)。
  • 771年(宝亀2年):四天王寺障子絵伝、成立。
  • 771年(宝亀2年)2月:封戸50戸施入(新抄格勅符抄)。
  • 773年(宝亀4年)7月22日:周防国50戸施入。
  • 816年(弘仁7年):最澄、四天王寺の「上宮廟」に参詣し「誓願詩」を献じた(伝述一心戒文)。聖徳太子は慧思の後身とし、法華経を広めた先駆者として讃える。聖徳太子の取経説話も記される。参詣のことは史実とみられる。伝承によるとこの時、最澄は延暦寺根本中堂を模して六時礼讃堂を建立したという。
  • 825年(天長2年)2月8日:義真は太政官符を得て四天王寺と法隆寺の安居会に天台宗僧を出仕させ、天台宗の教義について講じる(類聚三代格)。この年は光定が安居講師を務めた。天台宗の影響下に入っていく。
  • 829年(天長6年):円仁が四天王寺安居会で法華経と仁王経を講じる。
  • 833年(天長10年):四天王寺の塔の心柱に納められていた聖徳太子霊髪の中から明珠が出現(太子伝古今目録抄)。
  • 836年(承和3年)12月6日:四天王寺の塔が落雷で破損したが被害調査をした官吏が塔の中の聖徳太子霊髪を盗み妻に与える事件が発生。朝廷は祟りを恐れて捜索し、翌年12月8日に新造の木壺・銅壺に霊髪を納めて返却した。(続日本後紀)
  • 837年(承和4年):円行、四天王寺別当。真言宗東寺系の僧侶としては初。
  • 860年(貞観2年)6月14日:毘沙門天像が持物である刀と塔を投げるという怪異が報告され、朝廷は使者を派遣して修法を行った(三代実録)。
  • 872年(貞観14年):円珍、奏聞を経て四天王寺安居会に法華経・仁王経に加え、最勝王経も講じることを定める。
  • 940年(天慶3年)1月22日:静因、平将門調伏のため大威徳法を行う。
  • 943年(天慶6年):静因が別当に就任し、朱雀上皇御願寺として四天王寺薬師院を創建(太子伝古今目録抄)。
  • 960年(天徳4年)3月17日:火災(日本紀略)
  • 967年(康保4年)5月:延暦寺僧侶をもって四天王寺別当に任命する(『論集日本仏教史』年表)。四天王寺の末寺化の始まり。
  • 1000年(長保2年)3月23日:東三条院詮子が参詣(御堂関白記)。
  • 1000年(長保2年):園城寺慶算が四天王寺別当に就任。
  • 1012年(長和1年):延暦寺蓮海が四天王寺別当に就任。延暦寺系と園城寺系がつく慣例となる。
  • 1007年(寛弘4年)8月1日:『四天王寺御手印縁起』が金堂から発見される。都維那十禅師慈蓮により金堂の六重小塔の中から発見された。同縁起では四天王寺の金堂と塔が極楽浄土の東門に当たると記され、浄土教の発展に影響を与えた。
  • 1023年(治安3年)10月28日:藤原道長高野山参詣の帰りに四天王寺を参詣し、仏舎利を拝観する(扶桑略記)。
  • 1031年(長元4年)9月25日:上東門院彰子、石清水八幡宮参詣のついでに四天王寺に参詣(左経記)。栄花物語によると、この時、西大門に車を停め、海に沈む夕日を拝んだという。
  • 1048年(永承3年)10月19日:藤原頼通、参詣。高野山の帰り。(宇治関白高野山御参詣記)
  • 天喜(1053-1058)頃:四天王寺別当は園城寺系となる。鳥羽法皇の院宣で園城寺の支配権が確立した。
  • 1099年(康和1年)9月13日:三善為康に参詣し9日間で百万遍念仏を成就。金堂に詣でると舎利が出現したという。これを動機として『拾遺往生伝』を記す。
  • 1127年(大治2年)2月4日:白河上皇が参詣(中右記)。
  • 1127年(大治2年):良忍が四天王寺を参詣。この時、聖徳太子の霊告を受け、大念仏寺を創建したという。
  • 康治久安頃:鳥羽法皇、西門外鳥居内の八幡念仏所の出雲聖人に結縁(台記)。御幸は11回に及んだという。
  • 1140年(保延6年)8月:西念という僧が、四天王寺西門から入水往生をはかるが果たせず。この時に身に着けていたものが現存する。
  • 1148年(久安4年)9月:鳥羽法皇、四天王寺御幸。絵堂で絵解を聞く。藤原頼長が随行。
  • 1149年(久安5年)11月12日:鳥羽法皇、御願寺として四天王寺念仏三昧院を造営。(本朝文集)
  • 1154年(久寿1年)9月20日:念仏三昧院に讃岐国勅旨田を施入(台記)。
  • 1165年(永万1年):住吉大社と境界争論が起こる。(山槐記)
  • 1185年(文治1年):法然慈円の誘いを受け、四天王寺西大門近くに草庵を結び滞在したと伝わる。この草庵が一心寺の起源という。(一心寺の由緒)
  • 1187年(文治3年)8月22日:後白河上皇五智光院を造営し、園城寺公顕から伝法灌頂を受ける(玉葉)。のち五智光院は四天王寺の本坊となる。五智光院には土佐国高岡庄七カ郷が後白河院の勅旨で施入された(足利直義下知状)。
  • 1180年(治承4年):延暦寺明雲、四天王寺別当に就任。別当職をめぐり、延暦寺側と園城寺側の対立が激化。
  • 1189年(文治5年):後白河院庁宣により、四天王寺別当職は園城寺平等院に付す。(寺門高僧記)
  • 1191年(建久2年)9月18日:念仏三昧院、放火で焼失(玉葉)。翌年上棟(心記)。
  • 1192年(建久3年)9月:慈円、四天王寺と聖徳太子墓に参詣。
  • 1195年(建久6年)5月20日:源頼朝、念仏三昧院や灌頂堂など巡拝。聖霊院に剣を奉納した。(吾妻鏡)
  • 1196年(建久7年):実慶の四天王寺別当就任を巡って園城寺系同士で対立。
  • 1199年(正治1年):親鸞が参詣(親鸞聖人正統伝)
  • 1201年(建仁1年)9月20日:五重塔修復落慶。後鳥羽上皇、行幸。(百錬抄)
  • 1201年(建仁1年)10月5日:後鳥羽上皇、熊野御幸の途中に参詣。(後鳥羽院熊野御幸記)
  • 1202年(建仁2年):親鸞が参詣(親鸞聖人正統伝)
  • 1214年(建保2年)6月26日:四天王寺宝蔵から『細字法華経』(夢来経)が発見される(四天王寺解)。
  • 1224年(元仁1年):慈円、四天王寺絵堂を再建(法然上人行状絵図)。
  • 1227年(安貞1年):四天王寺蔵『太子伝古今目録抄』成立。
  • 1227年(安貞1年):聖徳太子墓付近から御記文石が発見され、四天王寺に奉納された。(明月記)
  • 1228年(安貞2年)以後:『吉野吉水院楽書』成立。「四天王寺聖霊会」の語の初出。これ以前から四天王寺で聖霊会が行われていたかどうかは記録がない。
  • 1230年(寛喜2年):住吉大社との境界争論(民経記)。
  • 1231年(寛喜3年)12月17日:四天王寺別当職を巡って園城寺衆徒が蜂起(百錬抄)。以後、抗争がたびたび続く。
  • 1233年(天福1年):四天王寺で新たな御記文石が発見され、群衆が押し寄せた(明月記)。
  • 1234年(文暦1年)4月8日:執行明順が前執行円順に殺害された(百錬抄)。
  • 1237年(嘉禎3年)8月5日:上座覚順が200人以上を率いて伽藍に乱入。諸堂を放火するが渡辺党に討ち取られた。(百錬抄、吾妻鏡)
  • 1237年(嘉禎3年)10月:宜秋門院任子・東一条院立子・藤原道家らが参詣(百錬抄)。
  • 不詳:証空、聖徳太子の霊夢により四天王寺の聖霊院で不断念仏を行った。
  • 1249年(建長1年)8月14日:青蓮院門跡の僧徒、仁助法親王を四天王寺別当に任じるように要求。(『論集日本仏教史』年表)
  • 1250年(建長2年):日蓮、四天王寺参詣(別頭統記)。
  • 1264年(文永1年)1月2日:四天王寺僧徒と園城寺が四天王寺別当職をめぐり抗争。(『論集日本仏教史』年表)
  • 1264年(文永1年)5月24日:院宣で四天王寺別当を園城寺に与える。(『論集日本仏教史』年表)
  • 1274年(文永11年):一遍が参詣。「十種の制文」を納めたという。
  • 1284年(弘安7年)9月27日:叡尊、四天王寺別当に就任(感身学正記)。天台宗以外からは異例。一旦は固辞するが、翌年3月に入寺。
  • 1285年(弘安8年)4月3日:叡尊、四天王寺で730人に授戒。翌日には舎利講。
  • 1285年(弘安8年)10月14日:亀山上皇御幸。
  • 1286年(弘安9年):一遍、参詣。一年に二度参詣し、年を越す。
  • 1294年(永仁2年):忍性、四天王寺別当に就任。同年、石鳥居を再建(現存)。さらに忍性は悲田院・敬田院を再興したという。
  • 1302年(乾元1年)8月:四天王寺鳥居建立(『論集日本仏教史』年表)
  • 1332年(元弘2年/正慶1年)8月:楠木正成、四天王寺で聖徳太子の未来記を見て、後醍醐天皇の倒幕が約束されていると知ったという(太平記)。
  • 1335年(建武2年)5月18日:後醍醐天皇、四天王寺より『御朱印縁起』を取り寄せ書写し、奥書を記す。(後醍醐天皇宸翰本)
  • 1342年(興国3年/康永1年):北畠親房、結城親朝宛書状で聖徳太子御記文の示すところで皇統の運が開けると述べる。
  • 1347年(正平2年/貞和3年):『細字法華経』(夢来経)が再発見され、金堂に奉安される。
  • 1352年(正平7年/文和1年)閏2月15日:後村上天皇が四天王寺行幸。(園太暦)
  • 1356年(正平11年/延文1年)1月5日:北朝、尊円法親王を四天王寺別当とする(『論集日本仏教史』年表)
  • 1357年(正平12年/延文2年)6月21日:地震で金堂が倒壊。五重塔も傾斜した。(後愚昧記)
  • 1361年(正平16年/康安1年)6月21日:四天王寺金堂倒壊(『論集日本仏教史』年表)
  • 1364年(正平19年/貞治3年)6月:将軍足利義詮が滞在。
  • 1365年(正平20年/貞治4年)4月26日:四天王寺金堂上棟。後村上天皇が行幸(師守記)。5月に落慶(続史愚抄)。
  • 1374年(文中3年/応安7年)3月22日:後光厳天皇の分骨が四天王寺に納められた。その後の消息は不詳。(師守記)
  • 1443年(嘉吉3年)1月15日:寺僧の抗争で四天王寺炎上。太子殿・御影堂・回廊・三昧堂・鎮守社が炎上。焼失した聖徳太子像の中から黄金の小像が見つかり「奇得之事」として注目を集めた。(看聞御記)
  • 1460年(寛正1年)閏9月2日:畠山義就が焼く。(長禄四年記)
  • 1463年(寛正4年)4月:聖霊院再建。(三井続灯記)
  • 1470年(文明2年)5月21日:大内政弘軍の乱入で一部焼失。(大乗院寺社雑事記)
  • 1510年(永正7年)8月8日:地震で金堂・石鳥居・二十一社などが倒壊し、本尊如意輪観音像も破損したという(続史愚抄)。1516年(永正13年)に本尊修復(天王寺誌)。鳥居も1516年(永正13年)修復。
  • 1576年(天正4年)5月3日:織田信長石山本願寺が対決した石山合戦の兵火で伽藍焼失。
  • 1578年(天正6年):織田信長、地子高62石を寄進。
  • 正親町天皇の時代:三方楽所の体制ができる。天王寺楽所の楽人5人を京都に呼ぶ。
  • 1594年(文禄3年):大政所、100石寄進。
  • 1594年(文禄3年)7月10日:大和国の代官給人中に平群郡額田部にある五重塔(どこの寺は不明)の四天王寺への移築が命じられる。
  • 1594年(文禄3年)7月17日:豊臣秀吉、金堂・講堂・聖霊院・太子堂・食堂・塔・仁王門・南大門・西門・万灯院・鐘楼・求聞持堂の再建を命じる。
  • 1600年(慶長5年)3月27日:豊臣秀頼が伽藍再興。
  • 1601年(慶長6年):豊臣秀頼、1000石寄進。
  • 1609年(慶長14年):豊臣秀頼、今宮神社領として四天王寺に15石を寄進。
  • 1614年(慶長19年)11月6日:大阪冬の陣で四天王寺焼失。(慶長日記)
  • 1615年(元和1年)11月:二条城の徳川家康、四天王寺再建の意向を天海と四天王寺の一舎利雲順・二舎利通順・秋野坊猷順に伝える。
  • 1619年(元和5年):天海が復興。以後、四天王寺別当は輪王寺宮が兼務。幕府は1177石を寺領として認める。
  • 1632年(寛永9年)9月21日:四天王寺、徳川幕府により再建落慶(天王寺改渡帳)。
  • 1637年(寛永14年)3月:天海、四天王寺に対し、五カ条の掟を定める。
  • 1664年(寛文4年):徳川家綱、四天王寺の修理を命じる。修理料を寄進し寺領は合計1490石となる(天王寺誌)
  • 1670年(寛文10年)2月:四天王寺、聖徳太子1500回忌法会?(『論集日本仏教史』年表)
  • 1670年(寛文10年)8月:伽藍修理が完了。(摂陽群談)
  • 1689年(元禄2年)2月:四天王寺、聖徳太子開帳(『論集日本仏教史』年表)
  • 1773年(安永2年):伽藍大破。
  • 1788年(天明8年)11月:伽藍修復落慶。(天明集成絲綸録)
  • 1801年(享和1年)12月4日:落雷で伽藍40棟が焼失。(大坂四天王寺雷火之次第)
  • 1811年(文化8年):六時礼讃堂、椎寺薬師堂を移築して再建(現存)。
  • 1812年(文化9年):四天王寺再建。この時の伽藍が太子殿を除き1945年(昭和20年)まで残る。(再興御披露文)
  • 1863年(文久3年)7月18日:四天王寺太子殿、焼失。
  • 1879年(明治12年):四天王寺太子殿、再建。
  • 1879年(明治12年):四天王寺の聖霊会舞楽が復興。西本願寺の大谷光尊や大坂願泉寺小野樟蔭の尽力による。
  • 1884年(明治17年):旧天王寺楽所の系譜を継ぎ、天王寺楽所雅亮会、設立。
  • 1903年(明治36年):第5回内国勧業博覧会
  • 1906年(明治39年):大釣鐘堂建立(現在の英霊堂)。
  • 1909年(明治42年)12月3日:天王寺公園開園
  • 1922年(大正11年):四天王寺学園を設立。天王寺高等女学校開校。
  • 1931年(昭和6年):施薬療病院を設立。
  • 1934年(昭和9年)9月21日:室戸台風で被災。五重塔・仁王門が倒壊。金堂も破損。
  • 1935年(昭和10年):金堂修復。
  • 1937年(昭和12年):悲田院を設立。
  • 1937年(昭和12年):仁王門再建。
  • 1940年(昭和15年):五重塔再建。
  • 1945年(昭和20年)3月13日:大阪大空襲で焼失。ほとんどの伽藍が焼失する。
  • 1947年(昭和22年)6月22日:四天王寺、天台宗より離脱して和宗を設立。(『法隆寺の秘話』に1949年(昭和24年)11月、叡福寺と共に「聖徳三経宗」を設立したとの記述があるが不詳)
  • 1948年(昭和23年):四天王寺高等学校設立。
  • 1952年(昭和27年):四天王寺大和別院を創建。
  • 1953年(昭和28年):阿弥陀堂を伊勢国束寺本堂を移築して再建。
  • 1954年(昭和29年):太子殿前殿再建。
  • 1955年(昭和30年):金堂跡を発掘調査(1957年(昭和32年)まで)。飛鳥時代~奈良時代の瓦が出土。
  • 1955年(昭和30年):亀井堂を再建。
  • 1957年(昭和32年):四天王寺学園女子短期大学を設立。1967年(昭和42年)に四天王寺女子大学となる。
  • 1959年(昭和34年):五重塔を再建。
  • 1962年(昭和37年):西大門を松下幸之助の寄進で再建。
  • 1963年(昭和38年):金堂再建落慶法要。
  • 1979年(昭和54年):太子殿の奥殿・絵堂・経堂を再建。
  • 1981年(昭和56年):四天王寺女子大学を改組して四天王寺国際仏教大学となる。
  • 1983年(昭和58年):聖霊院絵堂の壁画完成。
  • 2008年(平成20年):四天王寺国際仏教大学、四天王寺大学と改称。

伽藍

中心伽藍

『摂津名所図会』
  • 五重塔釈迦三尊の壁画と四天王の木像を祀る。『天王寺誌』には「釈迦如来画像、四天王ノ木像、八祖画像」とある。釈迦三尊と壁画は山下摩起(1890-1973)が描いた。聖徳太子が塔を建てた時、塔心礎に仏舎利6粒と自らの髻髪6毛を納めた。「六道利救の塔」と呼ぶ。8代目。
  • 金堂:本尊は救世観音。『天王寺誌』には「如意輪観音像、弥勒菩薩、四天王像、十二天画像、十六善神画像、婆羅門六形、六重ノ宝塔一基、舎利塔一基」とある。現在の救世(くぜ)観音は1961年(昭和36年)に村上炳人により造立。別尊雑記掲載の図像に基づくという。四方を四天王が守る。毎日午前11時から舎利出しの法要が行われる。基壇の下に青龍池があるとされ、白石玉出の清水が湧き亀井堂に流れているとされる。中村岳陵(1890-1969)の仏伝図の壁画がある。鷹泊木がある。
  • 講堂:『天王寺誌』には「講法堂」とあり「阿弥陀如来像、観音菩薩、勢至菩薩、塞観音ノ像、虚空蔵菩薩、四天王像」とある。東を冬堂とし、西を夏堂とする。冬堂に十一面観音を、夏堂には阿弥陀如来を祀る。郷倉千靭(1892-1975)の仏教東漸の壁画がある。法華八講を行う。
  • 仁王門:金剛力士を祀る。中門。『天王寺誌』には「二重門」とあり、「金剛像、力士像、狛狗、獅子」とある。1934年(昭和9年)の室戸台風で倒壊。1940年(昭和15年)再建。1945年(昭和20年)の戦災で焼失。1963年(昭和38年)10月再建。8代目。現在の金剛力士像は松久朋琳・松久宗琳の造立で高さ5.3m。
  • 龍の井:
  • 転法輪石
  • 北鐘堂:講堂の裏の西側にある。祇園精舎の鐘と同じ音階の音を出し、その音は極楽浄土まで響くという。黄鐘楼。北引導鐘堂。
  • 太鼓楼:講堂の裏の東側にある。本尊は虚空蔵菩薩。元は太鼓を吊るしていたが、再建の時に北鐘堂と同じ黄鐘調の鐘を設置した。
  • 六時礼讃堂:本尊は薬師如来。羅〓星と計都星を脇侍とする。四方に四天王を祀る。816年(弘仁7年)、最澄延暦寺根本中堂を模して建立。『天王寺誌』に「薬師如来像、千手観音、四天王、不動明王、妙見星、計都星、羅〓星、吉祥天女、賓頭盧」とある。1801年(享和1年)雷火で焼失。1811年(文化8年)、椎寺薬師堂(1623年(元和9年)再建)を移築したのが現在の堂宇。1945年(昭和20年)の戦災を耐え抜いた。修正会や聖霊会などの大規模法要を行う。『天王寺誌』によると、東南の隅に伝教大師最澄が六時勤行を行った「伝教ノ坐」があったという。また千手観音は摂津・百済寺あるいは阿倍寺の旧本尊という。六時堂。前に亀の池があり、石橋の上に石舞台がある。
  • 楽舎:六時礼讃堂・石舞台の手前、北鐘堂と太鼓楼の間にある。4月22日の聖霊会で伶人が楽を奏する場所。右方舞と左方舞に合わせて右方楽舎(向かって左側)または左方楽舎(向かって右側)を用いる。
  • 御供所:左右楽舎の中間にある。聖霊会でここに置かれた御供物を行道に加わった者によって六時礼讃堂まで運ばれ、僧侶が「楊枝の御影」の前に供える。
  • 食堂:『天王寺誌』には「文殊菩薩像」とある。戦災で廃絶。
  • 東僧坊:『天王寺誌』に記載あり。廃絶。
  • 西僧坊:『天王寺誌』に記載あり。廃絶。

聖霊院

聖霊院は後花園天皇の勅願で建立。

  • 太子殿前殿:『天王寺誌』には「十六歳太子像、両童子、四天王」とある。1954年(昭和29年)再建。秘仏の聖徳太子孝養像と聖徳太子二歳像・四天王を祀る。秘仏「試みの観音」も祀るか。『天王寺誌』には黒駒の本地仏普賢菩薩を祀る「驪駒ノ間」が内陣東にあること、外陣東の「曼陀羅間」で1238年(暦仁1年)証空が浄土曼荼羅を安置して常念仏を行ったといい、天正頃までこの曼陀羅があったという。
  • 太子奥殿:『天王寺誌』には「宝殿」とあり、「五十歳太子像、両童子」とある。『天王寺誌』によると奥殿は後花園天皇の勅で造営したという。1979年(昭和54年)再建。聖徳太子摂政像を祀る。基壇の地下には六観音(智慧、子育、施薬、厄除、水子、極楽)を祀る。
  • 経堂:『天王寺誌』によると、聖徳太子が百済請来の一切経を供養した地という。勝鬘経、維摩経、法華経、三経義疏をはじめとして高麗大蔵経・昭和荘厳経などを収める。10月22日に経供養が行われる。『天王寺誌』には「経供養堂」とあり、「観世音菩薩」とある。
  • 絵堂:かつては最古の「聖徳太子絵伝」があった。『天王寺誌』によると行慶の時代に倒壊してしばらく廃絶していたが、1224年(元仁1年)別当慈円が再興し、往生伝を尊智に描かせた。1983年(昭和58年)完成。杉本健吉の「聖徳太子御絵伝障壁画」がある。
  • 棚所:『天王寺誌』に「十六歳太子ノ像」とある。現存不詳。
  • 願成就宮:祭神は物部守屋・弓削小連・中臣勝海。聖徳太子は四天王寺建立の時に物部守屋を祭ると共に、主を失った家臣を四天王寺の公人に任命した。物部守屋の霊はこれを喜び、四天王寺を守護し、庶人の願いを成就させると託宣したという。『天王寺誌』には「熊野権現宮」とある。
  • 黒駒厩舎:
  • 鐘楼:廃絶。礎石が残る。
  • 勅使門:江戸時代初期には東側の塀沿いに勅使門が置かれていた。

極楽門周辺

  • 西大門:浄土教の聖地とされる。この門は極楽浄土の東門と信じられるようになる。1962年(昭和37年)松下幸之助の寄進で再建。番浦省吾(1901-1982)の壁画がある。極楽門と呼ばれる。『天王寺誌』には「南方東向山越弥陀、北方東向十大弟子、南方西向弥陀像、北方西向釈迦像」とある。
  • 石鳥居:西大門の前にある。
  • 短声堂:西大門外の北側にあった。鳥羽法皇の勅願。念仏三昧院、念仏堂。法然上人二十五霊場の一つだった。聖徳太子が用明天皇のために念仏修行を行ったという。「武庫山出現之弥陀」を聖徳太子が描いた絵像を祀っていた。三条西実隆が参詣時に歌を詠んでいる。鳥羽法皇は管弦を奏し、源頼朝はここを滞在所とした。1945年(昭和20年)の戦災で焼失し廃絶。『天王寺誌』には「妙観察智弥陀、金剛法菩薩、金剛利菩薩、金剛因菩薩、金剛語菩薩」とある。西行が念仏を唱えた「西行ノ坐」があったという。1923年(大正12年)の境内図に「念仏堂」とある。
  • 引声堂:西大門外の南側にあった。『天王寺誌』には「釈迦如来、文殊菩薩、普賢菩薩」とある。聖徳太子の時代に善信尼、禅蔵尼、恵善尼が住した。のち太子の乳母の月増姫、日益姫、玉照姫が住した。以後、貴族から庶民まで比丘尼が入る。守邦親王の王女や、建礼門院の侍女の理円尼(六条尼御前?)らが天王寺尼衆として知られる。元和年間に幕命で尼は追放されたという。「今に大坂小谷宝泉寺其旧地引処也」という。1923年(大正12年)の境内図に「法華堂」とある。
  • 見真堂:本尊は阿弥陀如来。向かって右に聖徳太子、左に六字名号を祀る。見真大師親鸞を顕彰する堂であり、見真堂という名前だが、親鸞は祀っていない。元は役小角を祀る堂だったが、のちに親鸞に変わったという。1973年(昭和48年)再建という。西大門の外側の北にある。
  • 布袋堂:本尊は布袋。一説には聖徳太子の乳母を祀ったともいう。西大門の外側の南にある。「乳のおんばさん」ともいう。
  • 納骨葬祭塔:布袋堂の南にある。
  • 慈母観音像:四天王寺学園。1954年(昭和29年)11月、学園創立30周年記念に造立。
  • 和光館:四天王寺学園内。
  • 一音院:短声堂の西にあった。現在は亀遊島弁天堂の南に移転。

亀井堂周辺

  • 亀井堂:西側に地蔵菩薩を本尊とする亀井の間があり、中央の井戸の中に飛鳥時代の亀型の水盤がある。霊水は亀井水、白石玉出の水と呼ばれる。東側の影向の間には聖徳太子の「楊枝の御影」を祭り、左右に馬頭観音と地蔵菩薩を祀る。経木供養が行われる。「楊枝の御影」は聖徳太子が青龍池に姿を映して自ら楊の枝で描いたというもので、聖霊会で六時礼讃堂に祀る。1945年(昭和20年)の戦災で焼失。1955年(昭和30年)再建。講堂の東側にある。
  • 亀井不動尊:本尊は水掛不動。子育地蔵と延命地蔵も祀る。聖徳太子が亀井の水面に映っていた不動明王を祀ったのが始まりという。1955年(昭和30年)再建。亀井堂の南にある。
  • 経書堂:廃絶。
  • 牛王堂:石神堂。四天王寺建設時に石や材木を運んだ牛が伽藍が完成した途端に石になったという。床下に牛王尊の巨石がある。講堂の回廊外側の東にある。『天王寺誌』には「石神」とある。「炊屋之左」とある。
  • 天照太神宮:用明殿の北にあった。現在の宝物殿のあたり。『天王寺誌』に記載あり。廃絶か。
  • 用明殿:祭神は用明天皇。聖霊院の北にある。1623年(元和9年)『天王寺御建立改渡帳』に記載がありそれ以前からあった。『天王寺誌』には「用明天皇宮」とあり、「欽明帝、敏達帝、崇峻帝、推古帝、間人皇后」とある。その後、徳川家康を合祀して東照宮と名前を変えたが、明治維新後は再び用明殿となった。1945年(昭和20年)の大阪大空襲で焼失。位牌は他で祀られていたが2019年(令和1年)12月に再建。
  • 四天王寺東照宮:用明殿に徳川家康を合祀したもの。江戸時代が終わると用明殿に戻った。神霊の消息は不明。
  • 三昧堂:現在の宝物殿あたりにあった。三昧院と同一か。『天王寺誌』には炊屋の左にあり、冷泉天皇の勅で969年(安和2年)に建立。摂津新開庄を寄進。
  • 御供所:三昧堂の北にあった。
  • 番匠堂:本尊は曲尺太子。東重門外側の北よりにある。
  • 一乗院:本尊は最澄。東重門外側の南よりにある。2020年(令和2年)建立。
  • 普賢菩薩:一乗院の南にある。
  • 炊屋:『天王寺誌』には「安麿、多門天」とある。廃絶か。
  • 宝物館:


万灯院周辺

  • 五智光院:江戸時代は極楽門内の南側にあった。
  • 万灯院:本尊は十一面観音薬師如来不動明王、紙衣仏、大黒天地蔵菩薩普賢菩薩も祀る。阿弥陀堂の東にある。聖武天皇の建立という。『天王寺誌』では「万塔院」が誤って伝わったものとする。1238年(暦仁1年)9月25日、九条道家が万燈会を行ったという。1952年(昭和27年)、椎寺薬師堂(1812年(文化9年)再建)を移築した。特に紙衣仏が有名で、「紙衣堂」「かみこ堂」とも呼ばれる。紙衣仏は「五百羅漢の一人」と説明されるが不詳である。10月10日に衣替え法要がある。ポックリ信仰で知られる。
  • 稲荷明神:山王社の西にあった。『天王寺誌』にあり。廃絶か。
  • 如来荒神:稲荷明神の西にあった。『天王寺誌』にあり。廃絶か。
  • 三宝荒神:如来荒神の西にあった。『天王寺誌』にあり。廃絶か。
  • 清浄水井戸屋形:
  • 阿弥陀堂:南大門の西方にある。1953年(昭和28年)に伊勢国束寺本堂を移築した。短声堂廃絶後に法然上人二十五霊場となっている。
  • 納骨堂:阿弥陀堂の隣にある。納骨葬祭塔に収める遺骨を仮に奉安する。1953年(昭和28年)、国束寺聖天堂を移築した。
  • 弘法大師堂:本尊は空海。阿弥陀堂の西北にある。空海像、四国霊場お砂踏みが隣にある。
  • 和労堂:講堂の回廊外側の西側にある。
  • 仏足石:和労堂の北にある。
  • 輪蔵:西大門内の北にあった。『天王寺誌』には「傅大士」を祀るとある「経蔵」か。


旧椎寺

  • 薬師堂:元三大師堂のそばにあった。椎寺薬師堂。
  • 椎宮:椎寺の地にあったとされる。6月には荒和祓(なごしのはらえ)、竈祓を行っていたという。『天王寺誌』
  • 元三大師堂:本尊は良源空海文殊菩薩普賢菩薩如意輪観音不動明王も祀る。1618年(元和4年)建立?。大黒堂の西北の墓苑の中にある。徳川秀忠が1623年(元和9年)8月19日、椎寺普門院として再建。この時には伝教大師と普賢菩薩を祀っていた。後に元三大師を本尊とし、元三大師堂と呼ばれるようになった。
  • 妙見堂:1812年(文化9年)四天王寺再建絵図に記述。
  • 願成就宮:1923年(大正12年)境内図には椎寺域内に描かれている。
  • 霊苑:

英霊堂周辺

  • 英霊堂:本尊は阿弥陀如来。持国天と増長天を脇侍とする。1906年(明治39年)、聖徳太子1300年遠忌の記念として大釣鐘堂として建立。157tの大梵鐘があったが戦争に金属供出。のち英霊を供養する英霊堂となった。阿弥陀如来は延暦寺西塔黒谷から迎えたものという。六時礼讃堂の西北にある。
  • 荼枳尼天堂:1923年(大正12年)境内図に大鐘楼(英霊堂)の西側に記載ある。
  • 大黒堂:本尊は三面大黒天。大黒天、毘沙門天、弁才天が合体したもの。英霊堂の西にある。如来荒神・妙見菩薩・不動明王も祀るか。1849年(嘉永2年)再建。元は南大門の西の万燈院の裏にあった。
  • 無縁塔:大黒堂の西にある。「安政地震津波碑」は1854年(安政1年)11月4~5日の地震・津波の犠牲者を供養する。
  • 地蔵山:地蔵堂を中心に百数十体の石仏を祀る。逢坂から井戸と共に移設された融通地蔵もある。
  • 逢坂清水:天王寺七名水の一つ。逢坂にあったが、明治末に道路工事のために井戸の構造物が移設されて保管されている。
  • 中之門:元和年間造営の僧坊門を1812年(文化9年)に現在地に移築したものである可能性が高く、元和年間再建の唯一の現存建造物という(六時礼讃堂は?)。
  • 東光院:英霊堂の東にある。
  • 静専院:英霊堂の南にある。
  • 吉祥院:静専院の西にある。
  • 中之院:中之門の東にある。

東大門周辺

  • 東大門:
  • 伊勢神宮遥拝石:
  • 亀遊島弁天堂:本尊は秘仏宇賀弁才天。月無池に浮かぶ。東大門西南にある。
  • 五輪塔:
  • 不動明王:
  • 役小角塔:不動明王像の横にある。宝篋印塔の中に石像役小角像がある。1754年(宝暦4年)建立。1884年(明治17年)12月再建。1920年(大正9年)12月再建。1992年(平成4年)12月、「実相教団」(不詳)奉納の香炉がある。台座に「大坂」「先達惣講中」とある。「宿坊秋野坊」の名がある。
  • 役小角塔:台座に「大本山三宝院醍醐神変講」「大阪岩瀬組」とある。
  • 相輪塔:
  • 五輪塔:
  • 畜魂供養塔:五輪塔。三宅商事合資会社、西部肉商連合進友会などの銘がある。
  • 名号碑:1841年(天保12年)9月、真阿が建立。
  • 一音院:

南大門周辺

  • 南大門:
  • 熊野権現礼拝石:
  • 大阪観音三十三所碑:
  • 山王社:南大門内の西にあった。『天王寺誌』にあり。廃絶か。
  • 南鐘堂:鯨鐘楼。南大門内側の東にある。太子引導鐘堂。
  • 十五社:南大門内の東にあった。『天王寺誌』には「天照太神宮、布留、大原、春日、松尾、稲荷、加茂、八幡、住吉、広田、熊野、吉野、白山、生野、子守」とある。廃絶か。

本坊内

  • 五智光院
  • 本坊:
  • 客殿:
  • 湯屋方丈:
  • 一心大神:本坊の庭園にある。
  • 宝蔵:『天王寺誌』には「拾一面観音」とある。校倉造。1801年(享和1年)の火災までは双蔵形式だった。現在のものは1802年(享和2年)の再建。

庚申堂

境外にある。

  • 庚申堂:本尊は秘仏青面金剛童子。日本最初の庚申堂という。701年(大宝1年)1月7日の庚申の日に創建。現在の堂宇は1970年(昭和45年)の大阪万国博覧会で日本仏教界有志が建てた法輪閣を移築したもの。
  • 三猿堂:庚申堂のそばにある。
  • 九頭龍大権現:
  • 役小角塔:
  • 護摩堂:庚申堂境内にあった。『天王寺誌』には「不動明王、矜羯羅、制多伽、十二天画像」とある。廃絶か。

  • 西大門
  • 南大門:
  • 東大門:
  • 中之門:西側の門。
  • 乾門:
  • 南脇門:唐門

四天王寺四石

  • 転法輪石:金堂前にある。転法輪が刻まれている。
  • 熊野権現礼拝石:南大門の内側にある。
  • 聖徳太子引導石:石鳥居の内側にある。『天王寺誌』によると四天王寺の役人の葬儀の際にはこの石の上に聖徳太子が現れ、安養浄界に導くという。そのためここに棺をしばらく置き、太子引導鐘を三度鳴らす。
  • 伊勢神宮遥拝石:東大門の内側にある。元は東大門の外にあったが明治初年に現在地に移設した。『天王寺誌』には「影向石」とある。

  • 青龍池:金堂の基壇の下にあり、亀井の水源になっていると伝わる。龍の井につながるか。荒陵池。
  • 駒カ池:現在の「瑠璃光の池」のあたりにあった。「高麗ケ池」とも。
  • 月無池:東大門内の南側にある。亀遊島弁天堂がある。江戸時代の「下の池」か。
  • 亀の池:六時礼讃堂の前にある。石舞台がある。
  • 丸池:講堂・六時礼讃堂の西側にある。江戸時代の「上の池」か。
  • 放生池:聖霊院内にあった。
  • 万代池:南大門の南にあった。
  • 極楽の池:本坊庭園内にある。
  • 瑠璃光の池:本坊庭園内にある。

井戸

  • 龍の井戸:中心伽藍の廻廊内の金堂の西側にある。
  • 太子井戸屋形:南鐘堂の南にある。
  • 清浄井戸屋形:
  • 亀井堂:白石玉出の水。天王寺七名水の一つ。
  • 閼伽井:亀井水の上
  • 影向井:亀井水の前

子院など

中世以前

  • 勝鬘院:大阪府大阪市天王寺区夕陽丘町。本尊は愛染明王。愛染堂と呼ばれる。聖徳太子が立てた施薬院が前身。聖徳太子が勝鬘経を説いた旧跡という。忍性が真言院として中興し真言律宗の時期もあった。真言密教勝鬘流を伝えた。多宝塔は大阪市内で現存最古の木造建造物。
  • 薬師院:大阪府大阪市天王寺区四天王寺。北西門の脇にあった。最澄の創建という。朱雀天皇御願寺。叡尊が復興して西大寺末の真言律宗となり、忍性の申請で関東祈祷所となる。叡尊弟子の観心房禅海が長老を務めていた。椎寺と呼ばれた。『天王寺誌』には「椎寺と云う」とあり、「薬師如来、日光、月光、十二神」とある。
  • 念仏三昧院:源頼朝が参拝。鳥羽天皇御願寺。金剛念仏三昧院か?
  • 三箇院:関東祈祷所。不詳。敬聖院。教聖院。尼寺。
  • 舎那院:関東祈祷所。不詳。毘盧舎那院。忍田坊。
  • 清光院:大阪府大阪市天王寺区伶人町。中ノ門の西方、安居神社の北にあった。新清水寺。有栖寺。在栖河寺。尼寺だった。『天王寺誌』に「天王寺ノ末寺」とある。1640年(寛永17年)、京都清水寺の延海から観音像を拝領して秋野坊が再興した。
  • 蓮華蔵院:聖徳太子伝を伝授して全国に広める拠点になっていたとみられる。
  • 地弥院:本尊が現存。芹田坊。阿弥陀如来と地蔵菩薩を祀る。太子伝を秘伝する坊だったという。
  • 真光院:大阪府大阪市天王寺区夕陽丘町。四天王寺僧侶の菩提所。本尊は阿弥陀如来。脇侍に如意輪観音と地蔵菩薩を祀る。聖徳太子御影と釈迦牟尼如来御影も祀る。聖徳太子が用明天皇の冥福を祈りために7日間念仏三昧を行ったところ、阿弥陀如来が出現したので、自作の阿弥陀像を祀って創建したという。地蔵菩薩は六万体地蔵尊と呼ばれている。不動堂があり、不動明王、如意輪観音、地蔵菩薩を祀る。『天王寺誌』に「天王寺ノ末寺」とあり、四天王寺境内では葬儀をしてはならないと太子が定めたため寺外で行った。勝鬘院の東にある。寺号は瑞雲寺。山号は光徳山。
  • 来迎寺:『天王寺誌』に「天王寺ノ末寺」とある。清光院の北にあった。空海が西大門で日想観を行った時、武庫山から阿弥陀如来が出現したので一宇を建てて聖徳太子作の阿弥陀三尊像を安置し、来迎寺と名付けたという。
  • 清水院:
  • 施行院:大阪府大阪市天王寺区悲田院町。本尊は聖観音。593年(推古1年)創建。南北朝時代に兵火で焼失。豊臣氏が再興。1670年(寛文10年)2月、再建。
  • 地蔵院:大阪府大阪市天王寺区勝山。『天王寺誌』に「天王寺ノ末寺」とあり「来歴は真光院と同じ」という。西光山。本尊は聖観音。593年(推古1年)、聖徳太子が四天王寺を造営した時、創建したという。真光院と同じく四天王寺の一山僧侶と役人の葬儀はこの寺で行う。六万体の地蔵尊の中の随一の尊像を納めて、地蔵院と称した。1819年(文政2年)本堂再建。地蔵堂がある。
  • 安居院:大阪府大阪市天王寺区逢坂。現在の安居神社の地にあったと伝える。安居殿もこの地にあったと考えられている。廃絶。
  • 奥の庵:山号は金龍山。本尊は阿弥陀如来。1786年(天明6年)5月、浄国寺存定が創建。現存不詳。(大阪府全志)

衆徒十二坊・執行

  • 静心院:衆徒十二坊。江戸時代初期には六時礼讃堂の東西に僧房があり、6房ずつあった。
  • 明静院:衆徒十二坊。廃絶か。松原市に同名の和宗寺院がある。
  • 東光院:衆徒十二坊。大阪府大阪市天王寺区四天王寺。大江神社別当。
  • 静専院:衆徒十二坊。大阪府大阪市天王寺区四天王寺。
  • 中之院:衆徒十二坊。大阪府大阪市天王寺区四天王寺。
  • 自性院:衆徒十二坊。大阪府大阪市天王寺区大道。
  • 吉祥院:衆徒十二坊。大阪府大阪市天王寺区四天王寺。
  • 玉照院:衆徒十二坊。廃絶か。
  • 千葉院:衆徒十二坊。廃絶か。
  • 修禅院:衆徒十二坊。廃絶か。
  • 一音院:衆徒十二坊。大阪府大阪市天王寺区四天王寺。
  • 法幢院:衆徒十二坊。廃絶か。
  • 秋野坊:大阪府大阪市天王寺区伶人町。現在の大阪府夕陽丘庁舎の場所にあった。廃絶。妻帯。四天王寺執行職(公文所職)を世襲し、法要以外の世俗の事務・行政を担当し、寺院運営の要だった。小野妹子の末裔という(慊堂日暦)。南北朝時代には存在していた。

現在

厳密な区分は不明。

  • 東光院:衆徒十二坊。大阪府大阪市天王寺区四天王寺。
  • 静専院:衆徒十二坊。大阪府大阪市天王寺区四天王寺。
  • 中之院:衆徒十二坊。大阪府大阪市天王寺区四天王寺。
  • 吉祥院:衆徒十二坊。大阪府大阪市天王寺区四天王寺。
  • 一音院:衆徒十二坊。大阪府大阪市天王寺区四天王寺。
  • 自性院:衆徒十二坊。大阪府大阪市天王寺区大道。
  • 勝鬘院:大阪府大阪市天王寺区夕陽丘町。
  • 清光院:大阪府大阪市天王寺区伶人町。
  • 真光院:大阪府大阪市天王寺区夕陽丘町。
  • 施行院:大阪府大阪市天王寺区悲田院町。
  • 地蔵院:大阪府大阪市天王寺区勝山。
  • 奥之院:大阪府大阪市天王寺区堀越町。庚申堂境内。

画像


組織

  • 平安時代から四天王寺別当職が置かれた。天台宗の僧侶が就任するようになってからは普段は京都や比叡山周辺などの自分の寺院におり、四天王寺に滞在する期間は短いか、全くなかったと思われる。
  • 江戸時代に四天王寺別当は輪王寺門跡が兼務したが、四天王寺の運営に直接関与することはなかったと思われる。
  • 江戸時代には「衆徒十二坊」が運営の中心となっていた。その中で一臈・二臈が「一舎利」「二舎利」という役職に就き、年預や秋野坊に指示を出し、大坂城代や大坂町奉行に四天王寺を代表して年礼に赴く役割を負い、寺務を統括する立場にあった。年預は三臈以下の衆徒の1人が交代でつく。秋野坊が「公文所」または「執行」を名乗り、会計・財政・寺領行政をはじめ法要以外の世俗の事務を担当した。
  • 四天王寺役人:堂司、聖、五智光院聖、十五社神主、十五社禰宜、鍵取、堂仕惣代、院家下職惣代、堂家下職、三昧堂守、南門番、北之門番、東門番、石橋番、鳥居番、西門番、浴室守、注進加役、公事惣代、焼香、絵図屋、今宮神主、庚申堂守、安居天神禰宜、勝鬘院門番、相坂清水守、経書堂守、御供所、普門院堂守

別当

  • 守澄まで人名・就任年月日・所属は「四天王寺別当表」(2021『図録 聖徳太子 日出づる処の天子』所収)に基づく。
  • 世数は『四天王寺年表』(104世まで)に基づく。研究が進んでなかった段階で、現用の世数が付けられたとみられる。そのため世数がない歴代別当が中世に多い。「四天王寺別当表」には世数の記載はない。
世数 所属 生没年 在職年 略歴
1 円行 真言・東寺 799-852 837-852 初代別当。真言宗僧。入唐八家の一人。799年(延暦18年)生。空海の弟子。838年(承和5年)入唐し、翌年帰国。山城・霊巌寺を開く。837年(承和4年)、四天王寺別当(年次は諸説あり)。852年(仁寿2年)3月6日死去。
2 仲曉 生没年不詳 871-871 経歴不詳。871年(貞観13年)8月7日、四天王寺別当。別当次第に「不着座」とある。846年(承和13年)の時点で延暦寺寺主だった仲曉という人物がいるが同一人物かは不明。
3 安雲 生没年不詳 871-874 経歴不詳。871年(貞観13年)9月10日、四天王寺別当。874年(貞観16年)退任。十禅師。
4 智叡 生没年不詳 874-878 経歴不詳。874年(貞観16年)10月9日、四天王寺別当。878年(元慶2年)任期満了。智穎とも。
5 安円 生没年不詳 878-891 経歴不詳。878年(元慶2年)10月4日、四天王寺別当。十禅師。安恵とも。
6 斉仁 生没年不詳 891-901 経歴不詳。891年(寛平3年)8月4日、四天王寺別当。892年(寛平4年)4月16日、再任。901年(延喜1年)在職で死去か。十禅師。
7 三明 真言・東寺 840-916 901-905 東寺(または東大寺)の僧侶。840年(承和7年)生。901年(延喜1年)6月26日、四天王寺別当。905年(延喜5年)910年(延喜10年)3月22日、権律師。916年(延喜16年)4月5日、律師。929年(延長7年)8月2日死去。90歳。十禅師。
8 真道 生没年不詳 905-913 経歴不詳。905年(延喜5年)4月3日、四天王寺別当。909年(延喜9年)4月16日再任。913年(延喜13年)任期満了。十禅師。
9 寛藤 生没年不詳 913-916 経歴不詳。913年(延喜13年)2月7日、四天王寺別当。十禅師。
10 平藤 生没年不詳 916-927 経歴不詳。916年(延喜16年)1月21日(7日とも)、四天王寺別当。925年(延長3年)10月28日、四天王寺別当再任。
11 恩運 生没年不詳 927-929 経歴不詳。927年(延長5年)5月11日、四天王寺別当。十禅師。
12 仁解 山門派・延暦寺 生没年不詳 929-932 経歴不詳。929年(延長7年)2月9日、四天王寺別当。
13 修敬 生没年不詳 932-939 経歴不詳。932年(承平2年)5月10日、四天王寺別当。
14 斉然 生没年不詳 939-943 経歴不詳。939年(天慶2年)5月4日、四天王寺別当。
15 清穏 山門派・延暦寺 生没年不詳 943-959 937年(承平7年)4月8日、法性房で尊意から三種悉地法を伝授される。940年(天慶3年)1月22日、六足法(大威徳法)を修す。943年(天慶6年)9月23日、四天王寺別当。静因、静穏とも。
16 趁伊 生没年不詳 959-961 経歴不詳。959年(天徳3年)4月8日、四天王寺別当。
17 神皎 生没年不詳 961-964 経歴不詳。961年(応和1年)8月2日、四天王寺別当。
18 乗恵 山門派・延暦寺 907-984 964-976 尊意の弟子。907年(延喜7年)生。929年(延長7年)得度。964年(康保1年)10月27日から976年(貞元1年)まで四天王寺別当。966年(康保3年)延暦寺阿闍梨。968年(安和1年)内供奉十禅師。981年(天元4年)10月21日権律師。983年(永観1年)3月26日、四天王寺別当に再任し四天王寺三昧院検校を兼ねる。984年(永観2年)死去(983年(永観1年)説も)。乗慧。
19 弘穏 生没年不詳 976-983 経歴不詳。976年(貞元1年)12月3日、四天王寺別当。
20 乗恵 山門派・延暦寺 907-984 983-983 983年(永観1年)3月26日、四天王寺別当に再任し三昧院検校を兼ねる。984年(永観2年)死去(983年(永観1年)説も)。
21 安法 山門派・延暦寺 生没年不詳 983-988 経歴不詳。歌人としても知られる。河原院に住す。983年(永観1年)12月26日、四天王寺別当。
22 清胤 山門派・延暦寺 944-995 988-995 大江朝綱の子。944年(天慶7年)生。988年(永延2年)6月26日、四天王寺別当。995年(長徳1年)5月8日死去(996年(長徳2年)説もある)。52歳。
23 忠暹 山門派・延暦寺 ?-997 995-997 経歴不詳。995年(長徳1年)8月15日、四天王寺別当。997年(長徳3年)12月10日、東三条殿で急死(小右記)。
24 延源 山門派・延暦寺 生没年不詳 997-1000 経歴不詳。997年(長徳3年)12月28日、四天王寺別当。998年(長徳4年)3月21日拝堂。
25 慶算 山門派・延暦寺 936-1013 1000-1012 経歴不詳。936年(承平6年)生。1000年(長保2年)11月、四天王寺別当。1013年(長和2年)1月16日死去。78歳。定額僧。
26 蓮海 山門派・延暦寺 938-1020 1012-1016 鎮守府将軍源信孝の子。938年(天慶1年)生。1012年(長和1年)3月3日、四天王寺別当。1014年(長和3年)権律師。1018年(寛仁2年)権律師を辞す。1019年(寛仁3年)九州に下る。1020年(寛仁4年)死去。83歳。平等坊と号す。
27 道命 山門派・延暦寺 974-1020 1016-1020 大納言藤原道綱の子。良源に師事。中古三十六歌仙の一人。嵐山法輪寺に住す。1016年(長和5年)1月20日、四天王寺別当。
28 定基 寺門派・園城寺 977-? 1020-1033 初の寺門派出身の四天王寺別当。977年(貞元2年)生。余慶の弟子。藤原道長に近侍。1017年(寛仁1年)2月27日の時点で浄妙寺別当となっている。1018年(寛仁2年)碩学竪義を園城寺で始めた時、探題となる。1020年(寛仁4年)12月29日、四天王寺別当。1021年(治安1年)5月27日、権少僧都。真如房と号す。
29 教円 山門派・延暦寺 979-1047 1033-1035 藤原孝忠の子。花山法皇の出家に従う。妙法院門跡天台座主法成寺別当。1033年(長元6年)6月3日、四天王寺別当。
30 延円 山門派・延暦寺 ?-1040 1035-1040 絵仏師。藤原義懐の次男。1035年(長元8年)11月28日、四天王寺別当。1040年(長久1年)2月5日死去。飯室阿闍梨、絵阿闍梨と呼ばれた。
31 頼寿 山門派・延暦寺 生没年不詳 1040-1042 経歴不詳。1040年(長久1年)2月5日、四天王寺別当。頼秀、頼春とも。
32 斎祇 山門派・延暦寺 983-1047 1042-1046 大納言藤原道綱の子。道命の弟。983年(永観1年)生。勝算の弟子。1042年(長久3年)8月19日、四天王寺別当。1047年(永承2年)7月死去。65歳。修学院と号す。
33 源永 寺門派・園城寺 977-1055 1046-1047 977年(貞元2年)生。余慶に学ぶ。1042年(長久3年)3月20日、最勝講講師を務める。1046年(永承1年)12月30日、四天王寺別当。1053年(天喜1年)9月23日、天台座主となるが、3日で辞任。1055年(天喜3年)死去。法輪院と号す。「源泉」と記すことも多い。
34 明快 山門派・延暦寺 985-1070 1049-1051 天台座主。法成寺別当。梨本流の祖。1049年(永承4年)12月30日、四天王寺別当。
35 桓舜 山門派・延暦寺 978?1057 1051-1057 法性寺座主。1051年(永承6年)3月5日、四天王寺別当。
36 済算 寺門派・園城寺 生没年不詳 1057-1062 経歴不詳。1057年(天喜5年)11月10日、四天王寺別当。
37 覚助 寺門派・園城寺 1013-1063 1062-1063 園城寺僧。1013年(長和2年)生。藤原道雅の子。行円・心誉に密教を学ぶ。園城寺花王院に住す。1055年(天喜3年)、大納言経長の妻の病気平癒祈願に験を現し、権律師となる。1062年(康平5年)12月28日、四天王寺別当。1063年(康平6年)11月11日死去。
38 良昭 寺門派・園城寺 生没年不詳 1064-1066 経歴不詳。1064年(康平7年)3月8日、四天王寺別当。「頼昭」は誤りか。
39 永覚 寺門派・園城寺 生没年不詳 1066-1081 敦道親王王子。冷泉天皇の孫。1066年(治暦2年)3月5日、四天王寺別当。
40 覚猷 寺門派・園城寺 1053-1140 1081-1094 源隆国の子。天台座主。園城寺長吏。証金剛院梵釈寺法勝寺などの別当を歴任。1081年(永保1年)12月27日、四天王寺別当。「四天王寺別当表」には「覚祐」とある。
41 増誉 寺門派・園城寺 1032-1116 1094-1116 天台座主。修験道本山派の開祖。聖護院門跡熊野三山検校。園城寺長吏。1094年(嘉保1年)7月13日、四天王寺別当。この頃から門跡寺院が入るようになる。
42 増賢 寺門派・園城寺 1070-1118 1116-1118 敦賢親王(三条天皇皇孫)の王子。1070年(延久2年)生。園城寺に入る。1107年(嘉承2年)5月、御修法の功で権律師となる。1111年(天永2年)園城寺真如院別当。1116年(永久4年)5月23日、四天王寺別当。1118年(元永1年)5月5日死去。49歳。
43 行尊 寺門派・平等院 1057-1135 1118-1135 源基平の子。円満院門跡平等院門跡。園城寺長吏。1116年(永久4年)園城寺長吏。1118年(元永1年)5月29日、四天王寺別当。1123年(保安4年)天台座主にもなるが比叡山の強硬な反発で6日で辞任。
44 行慶 寺門派・平等院 1101-1165 1135-1158 白河天皇皇子。行尊に師事。円満院門跡。園城寺長吏。1135年(保延1年)1月9日、四天王寺別当。
45 道恵法親王 寺門派・平等院 1132-1168 1158-1164 鳥羽天皇皇子。円満院門跡。園城寺長吏。1158年(保元3年)1月13日、四天王寺別当。1166年(仁安1年)1月21日、四天王寺別当再任。
46 覚性法親王 真言・仁和寺 1129-1169 1164-1166 四天王寺が天台化してから初めての真言宗の別当。鳥羽天皇皇子。仁和寺門跡総法務。1164年(長寛2年)1月14日、四天王寺別当。
47 道恵法親王 寺門派・平等院 1132-1168 1166-1168 1166年(仁安1年)1月21日、四天王寺別当再任。
48 円恵法親王 寺門派・平等院 1152-1183 1168-1180 後白河天皇皇子。1168年(仁安3年)4月8日、四天王寺別当。源義仲に襲撃され、殺された。通称は八条宮。
49 明雲 山門派・三千院 1115-1185 1180-1184 源顕通の子。天台座主。三千院門跡六勝寺別当。1180年(治承4年)6月21日、四天王寺別当。四天王寺別当就任を巡り、山門寺門の対立が激化。
50 定恵法親王 寺門派・平等院 1156-1196 1184-? 後白河天皇皇子。園城寺長吏。円満院門跡。1184年(元暦1年)2月23日、四天王寺別当。
法円 寺門派・平等院 1178?1231 不明 後白河天皇の孫。以仁王王子。円満院門跡。平等院。四天王寺別当の就任年は不明。
51 実慶 寺門派・桂園院 1117-1207 1196-1207 園城寺長吏。熊野三山検校。園城寺桂園院に住す。新熊野検校。1196年(建久7年)7月8日、四天王寺別当。別当就任をめぐり寺門内部で抗争。
52 慈円 山門派・青蓮院 1155-1225 1207-1208 藤原忠通の子。青蓮院門跡。天台座主。1207年(承元1年)11月30日、四天王寺別当。1213年(建保1年)9月12日、四天王寺別当再任。
53 真性 山門派・青蓮院 1167-1230 1208-1213 以仁王王子。青蓮院門跡か。天台座主。1208年(承元2年)11月5日、四天王寺別当。
54 慈円 山門派・青蓮院 1155-1225 1213-1225 1213年(建保1年)9月12日、四天王寺別当再任。
55 尊性法親王 山門派・妙法院 1194-1239 1225-1231 後高倉院(守貞親王)の皇子。天台座主。妙法院門跡。1225年(嘉禄1年)12月18日、四天王寺別当。1233年(天福1年)7月23日、四天王寺別当再任。
56 良快 山門派・青蓮院 1185-1242 1231-1233 九条兼実の子。天台座主。青蓮院門跡。1231年(寛喜3年)12月12日、四天王寺別当。
57 尊性法親王 山門派・妙法院 1194-1239 1233-1242 1233年(天福1年)7月23日、四天王寺別当再任。
58 慈源 山門派・青蓮院 1219-1255 1242-1249 九条道家の子。青蓮院門跡。天台座主。1219年(承久1年)生。1242年(仁治3年)3月15日、四天王寺別当。1255年(建長7年)7月19日死去。37歳。
59 仁助法親王 寺門派・円満院 1214-1262 1249-1262 土御門天皇皇子。円満院門跡。園城寺長吏。1249年(建長1年)9月6日、四天王寺別当。
60 円助法親王 寺門派・円満院 1236-1282 1262-1285 後嵯峨天皇皇子。円満院門跡。園城寺長吏。四箇院の復興を計画。1262年(弘長2年)9月14日、四天王寺別当。
61 叡尊 真言・西大寺 1201-1290 1285-1286 真言宗僧。真言律宗西大寺流の開祖。西大寺長老。東大寺大勧進。1285年(弘安8年)1月21日(1284年?)、四天王寺別当。
62 尊助法親王 山門派・青蓮院 1217-1290 1286-? 土御門天皇皇子。青蓮院門跡。天台座主。1286年(弘安9年)10月26日、四天王寺別当。
行覚法親王 寺門派・円満院 1274?1293 不明 後深草天皇の第五皇子。円満院門跡。園城寺長吏。四天王寺別当の就任年は不明。
63 慈実 山門派・青蓮院 1238-1300 1291-1291 九条道家の子。慈源の弟。青蓮院門跡。法性寺座主。天台座主。1291年(正応4年)3月12日、四天王寺別当。
64 最助法親王 山門派・三千院 1253-1293 1291-1294 後嵯峨天皇皇子。三千院門跡。天台座主。1291年(正応4年)8月9日、四天王寺別当。
65 忍性 真言・極楽寺 1217-1303 1294-1302 真言宗僧。真言律宗西大寺流。叡尊の弟子。極楽寺長老。東大寺大勧進。多田院別当。1294年(永仁2年)7月22日、四天王寺別当。1302年(乾元1年)5月24日、四天王寺別当に再任。
忍性 真言・極楽寺 1217-1303 1302-1303 1302年(乾元1年)5月24日、四天王寺別当に再任。(「四天王寺別当表」で65世とは別に一項目を立てている)
66 覚助法親王 寺門派・聖護院 1247-1336 1303-1327 後嵯峨天皇皇子。聖護院門跡。園城寺長吏。1303年(嘉元1年)12月11日、四天王寺別当。
67 慈道法親王 山門派・青蓮院 1282-1341 1327-1329 亀山天皇皇子。青蓮院門跡。法性寺座主。天台座主。1327年(嘉暦2年)3月27日、四天王寺別当。
円観山門派・法勝寺 1281?1356 1329-1339 法勝寺大勧進。1329年(元徳1年)5月5日、四天王寺別当(別当に就任してない可能性も)。
慈道法親王 山門派・青蓮院 1282?1341 1339-1341 亀山天皇の皇子。法性寺座主。青蓮院門跡。天台座主。1339年(延元4年/暦応2年)11月12日、四天王寺別当。
68 道昭 寺門派・常住院 1281-1355 1341-1351 一条家経の子。熊野三山検校。園城寺長吏。1341年(興国2年/暦応4年)1月19日、四天王寺別当。
忠雲 山門派・三千院 生没年不詳 1351-1356 三千院門跡(?)。中院光忠の子。大塔門跡。鎌倉大御堂別当(?)。1351年(正平6年/観応2年)、四天王寺別当。
69 尊円法親王 山門派・青蓮院 1298-1356 1356-1356 伏見天皇皇子。青蓮院門跡。天台座主。1356年(正平11年/延文1年)1月5日、四天王寺別当。
70 尊悟法親王 寺門派・円満院 1302-1359 1356-1359 伏見天皇皇子。円満院門跡。熊野三山検校。園城寺長吏。1356年(正平11年/延文1年)10月1日、四天王寺別当。
71 承胤法親王 山門派・三千院 1317-1377 1359-1363 後伏見天皇皇子。三千院門跡。天台座主。1359年(正平14年/延文4年)5月6日、四天王寺別当。
良瑜 寺門派・常住院 1330-1397 1363-1368 二条兼基の子。常住院実相院門跡。園城寺長吏。熊野三山検校。1363年(正平18年/貞治2年)3月6日、四天王寺別当。1387年(元中4年/嘉慶1年)2月16日、四天王寺別当再任。
最恵法親王 山門派・妙法院 生没年不詳 1368-1372 後醍醐天皇皇子。妙法院門跡(?)。1368年(正平23年/応安1年)閏6月2日、四天王寺別当。
72 覚誉法親王 寺門派・聖護院 1320-1382 1372-1377 花園天皇皇子。聖護院門跡。園城寺長吏。1372年(文中1年/応安5年)6月22日、四天王寺別当。
寛尊法親王 真言・大覚寺 ?-1382 1377-1382 真言宗僧。亀山天皇皇子。大覚寺門跡。1377年(天授3年/永和3年)8月25日、四天王寺別当。
尊道法親王 山門派・青蓮院 1332?1403 1383-? 後伏見天皇第十一皇子。青蓮院。天台座主。1383年(弘和3年/永徳3年)2月16日、四天王寺別当。1397年(応永4年)8月24日、四天王寺別当再任。
行悟 寺門派・円満院 1377-1406 不明 長慶天皇皇子。円満院門跡。園城寺長吏。四天王寺別当の就任年は不明。
良瑜 寺門派・常住院 1330-1397 1387-1397 1387年(元中4年/嘉慶1年)2月16日、四天王寺別当再任。
尊道法親王 山門派・青蓮院 1332?1403 1397-1403 1397年(応永4年)8月24日、四天王寺別当再任。
道意 寺門派・聖護院 1354?1429 1403-1420 二条良基の子。常住院。新熊野検校。熊野三山検校。園城寺長吏。聖護院門跡。1403年(応永10年)7月22日、四天王寺別当。1428年(正長1年)3月27日、四天王寺別当再任。
堯仁法親王 山門派・妙法院 1363-1430 1420-1428 後光厳天皇皇子。妙法院門跡。天台座主。1420年(応永27年)2月16日、四天王寺別当。
道意 寺門派・聖護院 1354?1429 1428-1429 1428年(正長1年)3月27日、四天王寺別当再任。
満済 真言・醍醐寺 1378-1435 1429-? 真言宗僧。三宝院門跡醍醐寺座主。東寺一長者。1429年(永享1年)10月29日、四天王寺別当。
満意 寺門派・聖護院 1386-1465 不明 最後の寺門派からの四天王寺別当。聖護院。常住院。如意寺。摂政太政大臣二条良基の子。道意の弟。園城寺長吏。四天王寺別当の就任年は不明。
73 尊応 山門派・青蓮院 1432-1514 1465-? 二条持基の子。青蓮院門跡。1465年(寛正6年)7月19日、四天王寺別当。
74 慈運法親王 山門派・曼殊院 1466-1537 不明 貞常親王王子。曼殊院門跡。法性寺座主。四天王寺別当の就任年は不明。
75 尊鎮法親王 山門派・青蓮院 1504-1550 1514-1550 後柏原天皇皇子。青蓮院門跡。1514年(永正11年)4月5日、四天王寺別当。
76 義俊 真言・大覚寺 1504-1567 1551-1565 真言宗僧。近衛尚通の子。大覚寺門跡。1551年(天文20年)10月7日、四天王寺別当。
77 尊朝法親王 山門派・青蓮院 1552-1597 1565-1597 邦輔親王王子。青蓮院門跡。天台座主。1565年(永禄8年)12月24日、四天王寺別当。
78 空性法親王 真言・大覚寺 1573-1650 1598-1615 真言宗僧としては最後の四天王寺別当。陽光太上天皇(誠仁親王)皇子。大覚寺門跡。1598年(慶長3年)10月12日、四天王寺別当。後天王寺宮と号す。
79 天海 山門派・寛永寺 1536-1643 1615- 輪王寺初代。寛永寺開山。日光山中興。毘沙門堂門跡中興。1615年(元和1年)11月、幕府は天海を「四天王寺主務」とするなどの七カ条の条目を下す。以降、輪王寺門跡が兼務。
80 公海 山門派・寛永寺 1607-1695 輪王寺2世。
81 守澄法親王 山門派・輪王寺 1634-1680 輪王寺宮初代。輪王寺3世。
82 天真法親王 山門派・輪王寺 1664-1690 輪王寺4世。
83 公弁法親王 山門派・輪王寺 1669-1716 輪王寺5世。
84 公寛法親王 山門派・輪王寺 1697-1738 輪王寺6世。
85 公遵法親王 山門派・輪王寺 1722-1788 輪王寺7世。
86 公啓法親王 山門派・輪王寺 1732-1772 輪王寺8世。
87 公璋(公顕)法親王 山門派・輪王寺 1760-1776 輪王寺9世。
88 公延法親王 山門派・輪王寺 1762-1803 輪王寺10世。
89 公澄法親王 山門派・輪王寺 1776-1828 輪王寺11世。
90 舜仁(公猷)法親王 山門派・輪王寺 1789-1843 輪王寺12世。
91 公紹法親王 山門派・輪王寺 1815-1846  輪王寺13世。
92 慈性法親王 山門派・輪王寺 1813-1867 輪王寺14世。
93 公現法親王 山門派・輪王寺 1847-1895 輪王寺15世。北白川宮能久親王。伏見宮邦家親王の王子。近衛師団長。台湾神宮祭神。

不詳

  • 真慶(生没年不詳):真言宗僧。異端とされる天王寺流の祖。元は勧修寺にいたというが、邪見のため追放されたという。
  • 文観(1278-1357):真言宗僧。醍醐寺座主。立川流の大成者。東寺長者法務。
  • 恒助法親王(1288-1310):後深草天皇皇子。円満院門跡。園城寺長吏。
  • 尊胤法親王(1306-1359)1334-:後伏見天皇皇子。三千院門跡。天台座主。
  • 寛欽法親王(1514-1563):貞敦親王王子。勧修寺門跡。

歴代住職(近現代)

  • 独立以降は和宗管長を兼ねる。
世数 生没年 在職年 略歴
(横山性順) 生没年不詳 1875-1876 1875年(明治8年)4月から1876年(明治9年)1月頃まで四天王寺住職。洞松実戒によって住職在職を否定される。
(阪上康順) 生没年不詳 1876-1877 1876年(明治9年)1月頃から四天王寺住職。洞松実戒によって住職在職を否定される。
94 洞松実戒 1800-1882 1877-1882 越中国砺波郡佐野出身。1800年(寛政12年)生。俗姓は有沢。比叡山延暦寺西塔金光院亮照に師事。のち智積院学寮で倶舎唯識を学ぶ。金峰山寺で禅観法を学び、紀伊国天川を経て金剛山で断食して霊位を得た。尾張長栄寺豪潮に師事し、1835年(天保6年)10月、長栄寺住職。藩主の帰依を得た。1874年(明治7年)3月教導職大講義。12月権中教正。1877年(明治10年)3月9日、四天王寺住職。組織改革を実行する。12月権大教正。1882年(明治15年)3月15日死去。亮阿。剛愚。
95 赤松光映 1819-1895 1886-? 天台座主233世。1875年(明治8年)から1881年(明治14年)まで天台宗管長。1886年(明治19年)2月19日、四天王寺住職。16カ月滞在。1895年(明治28年)8月15日死去。
96 吉田源応 1849-1927 1889-1927 天台座主242世・245世。愛知県春日井市出身。1849年(嘉永2年)生。1860年(万延1年)地元の龍泉寺に入る。密蔵院住職。1887年(明治20年)8月1日、四天王寺副住職(一節にこの年に住職に就任)。1889年(明治22年)2月26日、四天王寺住職。1903年(明治36年)11月2日から翌年10月19日まで、天台座主。1918年(大正7年)4月24日、再び天台座主となる。1927年(昭和2年)7月25日死去。79歳。慈是心院と号す。
97 塚原大応 1863-1931 1927-1931 愛知県小牧町出身。1863年(文久3年)生。大阪大威徳寺住職。三千院門跡。1927年(昭和2年)11月10日、四天王寺住職。1931年(昭和6年)10月3日死去。69歳。
98 木下寂善 1876-1942 1932-1942 福井県出身。1876年(明治9年)12月生。村田寂順に師事。天台宗大学卒。宗機顧問。1914年(大正3年)天台宗庶務部長。宗会議員。宗会議長。1932年(昭和7年)2月四天王寺住職。1932年(昭和7年)京都・方広寺住職兼二尊院住職。1932年(昭和7年)天台宗総務。1935年(昭和10年)戸津説法。1942年(昭和17年)7月23日死去。67歳。
99 武藤舜応 1871-1943 1942-1943 天台宗宗務総長。1871年(明治4年)生。春日井高蔵寺の出身。比叡山専修院卒。10代で高蔵寺住職。1917年(大正6年)四天王寺に入る。1938年(昭和13年)3月5日、宗派総務。宗派社会部長。1942年(昭和17年)10月20日(9月19日とも)、四天王寺住職。1943年(昭和18年)3月2日死去。慈剛心院と号す。
100 田村徳海 1873-1951 1943-1951 初代和宗管長。自坊は延暦寺延命院。青蓮院門跡。1943年(昭和18年)4月30日、特命で四天王寺住職に就任。戦後、大阪靖国霊場維持会を設立。1946年(昭和21年)1月21日、四天王寺独立宣言を出し天台宗を離脱。1949年(昭和24年)12月12日、和宗を設立して初代管長。1951年(昭和26年)1月9日死去。79歳。慈寰心院と号す。
101 出口常順 1900-1994 1951-1983 和宗管長2代。愛知県知多郡武豊町出身。1900年(明治33年)生。1911年(明治44年)四天王寺東光院に入寺。1926年(昭和1年)京都帝国大学文学部哲学科卒。1927年(昭和2年)四天王寺執事。1930年(昭和5年)比叡山専修学院卒。1951年(昭和26年)2月15日、四天王寺住職・和宗管長に就任。1983年(昭和58年)12月8日退任。1994年(平成6年)3月3日死去。慈光心院と号す。
102 奥田慈応 1898-1988 1983-1987 和宗管長3代。1898年(明治31年)生。1983年(昭和58年)12月8日から1987年(昭和62年)1月31日まで四天王寺住職・和宗管長。1988年(昭和63年)6月5日死去。79歳。無量光寿心院と号す。
103 塚原徳応 1907-1990 1987-1987 和宗管長4代。鳥取県倉吉市出身。塚原大応に師事。吉祥院住職。1987年(昭和62年)1月31日から2月7日まで四天王寺住職・和宗管長。
104 槇場弘映 ?-1996 1987-? 和宗管長5代。1987年(昭和62年)2月7日、四天王寺住職・和宗管長。1996年(平成8年)7月29日死去。73歳。
105 瀧藤尊教 1922-2010 1990-1994 和宗管長6代。四天王寺真光院の出身。1922年(大正11年)生。東京大学印度哲学科卒。1948年(昭和23年)延暦寺大仙院住職。1990年(平成2年)四天王寺貫主に就任。2010年(平成22年)12月8日死去。88歳。
106 加藤準道 ?-2002 1994?-1997? 和宗管長7代。2002年(平成14年)死去。
107 森田禅朗 1923-2015 1997?-2000 和宗管長8代。自坊は中之院。鳥取出身。1923年(大正12年)生。四天王寺国際仏教大学学長。2015年(平成27年)1月14日死去。91歳。
108 吉田英哲 2000-2003 和宗管長9代。関西大学出身。2000年(平成12年)4月1日住職就任。任期は3年。
109 塚原亮応 ?-2017 2003-2006? 和宗管長10代。自坊は吉祥院。2017年(平成29年)3月6日死去。84歳。
110 出口順得 ?-2016 2006?-2009 和宗管長11代。自坊は東光院。京都工芸繊維大学卒。2016年(平成28年)3月8日死去。78歳。
111 奥田聖応 1938- 2009-2015 和宗管長12代。自坊は勝鬘院。1938年(昭和13年)生。大阪外国語大学文学部卒。ジャイナ教の研究者。2009年(平成21年)から2015年(平成27年)まで四天王寺貫主・和宗管長。
112 森田俊朗 1942- 2015-2020 和宗管長13代。1942年(昭和17年)生。和歌山大学経済学部卒。2015年(平成27年)から2020年(令和2年)まで四天王寺貫主・和宗管長。
113 加藤公俊 2020-2023予定 和宗管長14代。2020年(令和2年)四天王寺貫主・和宗管長。

執事長

  • 瀧藤尊淳

任期3年

資料

  • 四天王寺御手印縁起[1]
  • 四天王寺金堂本尊再興勧進帳[2]
  • 天王寺再興勧進帳[3]
  • 四天王寺寺領帳[4]
  • 四天王寺名跡集[5]
  • 四天王寺縁起事(『諸寺縁起集』)[6]
  • 『大阪府全志』[7]
  • 四天王寺と大阪[8]
  • 四天王寺由緒沿革記[9][10]
  • 四天王寺と美術[11]
  • 四天王寺伽藍記[12]
  • 山崎竜洋2012「近世四天王寺における寺院社会構造」
  • 1939『大阪府史蹟名勝天然紀念物調査報告10』:四天王寺石鳥居の調査報告
  • 1940『荒陵余薫』[13]:仏像などの写真


別当次第

  • 『四天王寺別当次第』:『四天王寺古文書』第1巻所収
  • 「天王寺別当次第」:『寺門高僧記』巻6所載。『続群書類従』第28上所収。
  • 「四天王寺別当補任」:『法家相承次第』所載。彰考館文庫蔵。東京大学史料編纂所に謄写本
  • 「天王寺別当次第」:『東寺百合文書』所載。
  • 「四天王寺別当次第」:『醍醐寺文書』所載。醍醐寺蔵
  • 『天王寺別当次第』:『続群書類従』第4下所収。
  • 「天王寺別当次第」:『華頂要略』付録巻43所載。青蓮院蔵。
  • 山口哲史2021「平安時代四天王寺における天台宗の受容―法隆寺との比較を通じて」[14]
http://shinden.boo.jp/wiki/%E5%9B%9B%E5%A4%A9%E7%8E%8B%E5%AF%BA」より作成

注意事項

  • 免責事項:充分に注意を払って製作しておりますが、本サイトを利用・閲覧した結果についていかなる責任も負いません。
  • 社寺教会などを訪れるときは、自らの思想信条と異なる場合であっても、宗教的尊厳に理解を示し、立入・撮影などは現地の指示に従ってください。
  • 当サイトの著作権は全て安藤希章にあります。無断転載をお断りいたします(いうまでもなく引用は自由です。その場合は出典を明記してください。)。提供されたコンテンツの著作権は各提供者にあります。
  • 個人用ツール