ようこそ『神殿大観』へ。ただいま試験運用中です。
歴史も教義も制度も無視して、用語も正しく理解しようとせず、「宗教専門新聞」を称しているのは恥ずかしい。ましてや記者の暴力や差別発言や脅迫的発言は論外。
「殺してやる」「お前の脳みそは腐っている」「お前は強姦殺人犯のようだ」。これが「葬式をしない」代わりの21世紀劈頭の「ともいき」の宣言なのか。
「読売では暴力は当たり前だ」(真偽は不明)と何度言われても、本願にはほど遠い。東京都の放送局や伊賀でも同様なのか。
宗教団体・大学・メディアは「平和憲法を守れ」と主張する以前に、自ら刑法を侵さず、労働基準法を守るべきだ。「愚者の自覚」「智者のふるまいをしない」を言い訳とせず、人権同和活動を閉鎖せず、総本山警備員の集団リンチ傷害事件の隠蔽をやめるべきだ。国民の税金も使われた上で、血が流れた事件を曖昧にして落慶法要を行うつもりか。「お前を人権侵害で訴える」というなら早く訴えたらいかがか。
宗教界、言論界から暴力や差別が無くなるにはまだ無量年かかるのか。まあ無理か。

天台宗の年表

出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-) 最終更新:2018年12月31日 (月)

移動: 案内, 検索

天台宗の年表

目次

日本天台宗

インドと中国

  • 前463年:釈迦誕生。異説あり。(資料A1)
  • 釈迦、霊鷲山法華経を説く。(『法華経』)
  • 前383年:釈迦死去。異説あり。(資料A1)
  • 前3世紀前半:上座部と大衆部の分裂(資料A1)
  • 前268年:阿育王即位。(資料A1)
  • 前100年:このころ、大乗仏教運動が起こる。(資料A1)
  • 50-150年ごろ:インドで『法華経』など成立。(資料A2)
  • 67年:中国に仏教伝来。洛陽白馬寺創建。(資料A1)
  • 286年:竺法護、法華経を漢訳(『正法華経』)。(資料A2)
  • 406年:鳩摩羅什、法華経を漢訳(『妙法蓮華経』)。法華経の定本となる。(資料A2)
  • 508年:インドの菩提流支、洛陽に到着。(資料A1)
  • 527年:新羅仏教が始まる。(資料A1)
  • 601年:闍那崛多達摩笈多、鳩摩羅什訳法華経を補訂(『添品妙法蓮華経』)。(資料A2)
  • 534年:慧思慧文に会い、法華三昧を会得?(『日本大百科全書』)
  • 慧思、修行中に弥勒菩薩が降臨し、自らの分身として三寸二分の像を残す。これがのちに百済を経て日本に伝わり、園城寺の本尊となったとされる。(資料W01)
  • 538年(梁大洞4年):智顗、荊州華容県(湖南省)で生誕。(資料W02)
  • 558年:慧思、『立誓願文』で「正像末」時間論を提唱し、以後、末法思想が広まる。(『世界大百科事典』)
  • 560年(天嘉元年):智顗、光州大蘇山の慧思に師事。慧思は智顗を見て、「お互い釈尊が法華経を説かれたとき同席したものではないか」と言ったとされ、霊山同聴の宿縁という。(資料W02)
  • 568年:慧思、南岳衡山に入山。以後、南岳慧思とも呼ばれる。(『日本大百科全書』)
  • 575年(陳太建7年)9月:智顗、天台山を開く。隠棲。(資料W02)
  • 576年:智顗、華頂峰で修禅の最中に明星を見て悟りを得る。天台宗の開宗。華頂降魔。(資料W02)
  • 577年:慧思、死去。(『日本大百科全書』)
  • 597年11月24日:智顗、天台山西門の石城寺(新昌大仏寺)で死去。60歳。(資料W02)

古代1:最澄以前の法華経信仰

(以下、元号などは海外の出来事でも和暦を使用)

  • 538年:一説に仏教、日本に伝来。(資料A1)
  • 552年:一説に仏教、日本に伝来。(資料A1)
  • 576年:<中国>智顗、華頂峰で修禅の最中に明星を見て悟りを得る。天台宗の開宗。華頂降魔。(資料W02)
  • 577年:<中国>慧思、死去(資料A1)
  • 用明天皇代(585-587):のちに園城寺本尊となる弥勒菩薩像が百済から伝来という。(資料D)
  • 587年(用明2年):仏教崇敬の是非をめぐり、蘇我氏物部氏が合戦。(資料B1)
  • 587年(用明2年):一説に四天王寺創建。593年ともいう。(資料C1)
  • 589年:<中国>隋朝、中国を統一。(資料A1)
  • 591年:<中国>智顗、煬帝に菩薩戒を授ける。(資料A1)
  • 592年(崇峻5年):崇峻天皇、弑逆される(資料B1)。崇峻天皇皇子蜂子皇子、東北に逃れるという。
  • 593年(推古1年)4月10日:聖徳太子推古天皇の摂政となる。(資料C1)
  • 593年(推古1年):蜂子皇子、出羽三山を開くという。(出羽三山神社ウェブサイト)
  • 594年(推古2年)2月1日:推古天皇、三宝興隆の詔を発する。(資料C1)
  • 597年(推古5年):<中国>智顗、死去。(資料A1)
  • 602年(推古10年):本多善光、難波で善光寺如来を見つけ、信濃に祀るという。元善光寺の創建。 (坐光寺ウェブサイト)
  • 606年(推古14年):聖徳太子が『法華経』の講義を行う。(資料B1)
  • 615年(推古23年)4月15日:聖徳太子の『法華経義疏』完成。(資料C1)
  • 618年(推古26年):<中国>唐が興る。(資料A1)
  • 618年(推古26年):一説に聖徳太子、西教寺創建。(『天台宗真盛派年表』)
  • 622年(推古30年):聖徳太子薨去。(資料A1)
  • 626年(推古34年):中大兄皇子(天智天皇)誕生。のちの園城寺の閼伽井を産湯に使うという。三井寺の語源。(資料W01)
  • 推古天皇、園城寺に弥勒菩薩像を奉納という(資料W01)。
  • 631年(舒明3年)ごろ:大海人皇子(天武天皇)誕生。のちの園城寺の閼伽井を産湯に使うという。三井寺の語源。(資料W01)
  • 632年(舒明4年):<中国>灌頂死去(資料A1)
  • 634年(舒明6年)1月1日:役小角、大和国葛上郡芽原郷矢箱村(吉祥草寺)で生誕という。(資料W01)
  • 642年(皇極1年):善光寺如来、長野に遷座という。善光寺創建。(資料E)
  • 645年(大化1年):鵜野讚良(持統天皇)誕生。のちの園城寺の閼伽井を産湯に使うという。三井寺の語源。(資料W01)
  • 646年(大化2年):大化の改新。(資料A1)
  • 658年(斉明4年):役小角、箕面の瀧龍樹菩薩の出現を感得。龍樹から灌頂を受ける。(資料W01)
  • 663年(天智2年):白村江の戦い。(資料B1)
  • 667年(天智6年):天智天皇大津京遷都(資料A1)。崇福寺創建。このとき、日吉大社大神神社から大己貴神の分霊を招き、祀ったという(『日吉社禰宜口伝抄』資料D)。また天智天皇は夢告を得て念持仏の弥勒菩薩を祀る新たな寺院の創建を発願、計画は中断するが、のちの園城寺という(資料D、資料W01)。
  • 669年(天智8年):天智天皇、西教寺に阿弥陀仏を祭り、勅額を賜う。(『天台宗真盛派年表』)
  • 藤原鎌足、園城寺に弥勒菩薩像を奉納という。(資料W01)
  • 672年(弘文1年/天武1年):壬申の乱で天武天皇が勝利。一説にこの頃、園城寺創建。(『岩波仏教辞典第二版』、資料W01)
  • 681年(天武10年):<中国>善導死去。(資料A1)
  • 686年(天武15年):一説に大友与多、屋敷を寄進して園城寺とする(『扶桑略記』)(資料D)
  • 694年(持統8年)12月4日:持統天皇藤原京に遷都。(資料C1)
  • 699年(文武3年)5月24日:後世に修験道開祖とされる役小角、伊豆大島に配流となる。(資料C1)
  • 701年(大宝1年)6月:大宝律令。(資料C1)
  • 701年(大宝1年)6月7日:役小角、箕面の天上ケ岳に登り、生母とともに昇天したという。異説あり。(資料W01)
  • 702年(大宝2年):泰澄、鎮護国家法師となる(資料C1)。
  • 710年(和銅3年)3月10日:元明天皇平城京に都を遷す。(資料C1)
  • 712年(和銅5年)1月28日:『古事記』成立。大山咋神(山末之大主神)が日枝山(比叡山)に鎮座しているとの記述。(『古事記』)
  • 717年(養老1年):泰澄、白山に入る。(資料C1)
  • 726年(神亀3年):8月8日:聖武天皇元正太上天皇のために、釈迦像をつくり、法華経を写して供養する。(資料C1)
  • 729年(天平1年):藤原光明子、光明皇后となる。()
  • 740年(天平12年)6月19日:諸国に『法華経』10部の書写を命じ、七重塔を建立させる。(資料C1)
  • 741年(天平13年)3月24日:聖武天皇国分寺国分尼寺の建立を発願(資料C1)。国分尼寺と法華経および浄土教は密接な関係にある。(資料B1)
  • 745年(天平17年):この年、光明皇后が法華寺創建と推測される(『世界大百科事典 第2版』)。総国分尼寺とされる。
  • 746年(天平18年):東大寺法華会、初めて執行。以後恒例。(資料A2)
  • 行基、園城寺に弥勒菩薩像を奉納という。(資料W01)
  • 752年(天平勝宝4年)4月9日:東大寺大仏、開眼供養。(資料C1)
  • 754年(天平勝宝6年)1月16日:鑑真来日し、日本に初めて制式な戒律を伝えるとともに、天台典籍を請来し、日本に初めて天台宗を伝える。(『岩波仏教辞典第二版』『日本大百科全書』)。しかし、戒律は約70年後に大乗戒(円頓戒)を主張した最澄に否定される。
  • 755年(天平勝宝7年):鑑真、東大寺戒壇院創建。(末木文美士『日本仏教史』年表)
  • 聖武天皇、園城寺に弥勒菩薩像を奉納という。(資料W01)
  • 759年(天平宝字3年):鑑真、唐招提寺創建。(末木文美士『日本仏教史』年表)
  • 760年(天平宝字4年)7月26日:淳仁天皇、光明皇后(皇太后)の四十九日に阿弥陀浄土図を作成させる。翌年には全国の国分尼寺に阿弥陀像を奉安させる。(資料C1)
  • 761年(天平宝字5年):下野・薬師寺観世音寺に戒壇院建立。(末木文美士『日本仏教史』年表)
  • 766年(天平神護2年):道鏡、法王となる。4年後、下野・薬師寺に左遷。(資料A1)
  • 766年(天平神護2年):勝道日光に入り、四本龍寺創建。(資料E)
  • 767年(神護景雲元年):最澄、近江国滋賀郡古市郷(生源寺の地)で生誕。(資料D)
  • 769年(神護景雲3年):宇佐神宮神託事件。(資料B1)
  • 770年(宝亀1年):粉河寺創建。(資料C1)
  • 772年(宝亀3年):「十禅師」制度始まる。(資料A1)
  • 782年(延暦1年):勝道、日光男体山に登頂。()

古代2:最澄、大乗仏教の真髄として天台宗を伝える

  • 784年(延暦3年):桓武天皇長岡京遷都。(資料A1)
  • 784年(延暦3年):勝道日光中禅寺日光二荒山神社(現在の中宮祠)を創建。(資料E)
  • 784年(延暦3年):桓武天皇、西教寺再建。最澄に命じて読経させるという。(『天台宗真盛派年表』)
  • 785年(延暦4年)7月:最澄東大寺戒壇院で具足戒を受戒。比叡山に草庵を建てる(延暦寺の起源)。(資料A1)
  • 786年(延暦5年)1月21日:梵釈寺創建。のち園城寺末となる。(資料C1)
  • 788年(延暦7年)12月:最澄、比叡山寺(一乗止観院)を創建。(資料K)
  • 790年(延暦9年):最澄、聖衆来迎寺を創建。(資料D)
  • 791年(延暦10年):桓武天皇の勅願で日吉大社神輿を初めて調進唐崎に渡御。日吉大社山王祭の創始という。(『耀天記』資料D)
  • 794年(延暦13年)10月24日:平安京遷都。(資料K)
  • 794年(延暦13年):円仁、下野国都賀郡で生誕。(資料D)
  • 796年(延暦15年):東寺西寺鞍馬寺を創建。(資料A1)
  • 796年(延暦15年):勤操石淵寺で法華八講を行う。法華八講の起源とされる。(『三宝絵』『岩波仏教辞典第二版』)
  • 797年(延暦16年):最澄、十禅師となる。(資料D)
  • 802年(延暦21年):最澄、高雄山寺で五カ月に渡る法華会を開く。(資料D)
  • 804年(延暦23年):最澄入唐。空海も同時。(資料B1)
  • 805年(延暦24年):最澄帰国。高雄山寺で灌頂。7月『台州越州将来録』。8月、最澄、殿上で悔過読経。(資料B1)
  • 806年(大同1年)1月26日:最澄、天台宗に2人の年分度者が認められる(資料C1)。これをもって日本天台宗の創始とする。
  • 806年(大同1年)11月:最澄、比叡山で円澄ら約100人に菩薩戒を授ける。(資料C1)
  • 808年(大同3年):円仁、比叡山に入り、最澄に師事。(資料C1)
  • 819年:日光の四本龍寺、勅により満願寺と称す。(資料E)
  • 812年(弘仁3年)7月:東塔法華三昧院建立。(資料D)(資料C1)
  • 812年(弘仁3年)11月15日:空海、高雄山寺で金剛界結縁灌頂を行い、最澄これを受ける。(資料C1)
  • 812年10月18日:熊野別当を設置し、快慶を任命。(新宮市ウェブサイト)
  • 813年(弘仁4年)3月6日:空海、高雄山寺で金剛界灌頂を行い、最澄これを受ける。(資料C1)
  • 813年(弘仁4年)11月25日:最澄、空海に理趣経の借用を依頼するが拒否される。(資料C1)
  • 814年(弘仁5年)3月:最澄、宇佐八幡宮で法華経を講ずる。(資料C1)
  • 814年(弘仁5年)3月25日:円珍、和気宅成の子として讃岐国那珂郡金倉郷(金倉寺)で生誕。(資料W04)
  • 817年(弘仁8年):この年から821年(弘仁12年)まで、最澄と法相宗徳一が三一権実論争を行う。(『世界大百科事典』)
  • 817年(弘仁8年):勝道、死去。(資料E)
  • 817年(弘仁8年):興福寺法華会、初めて執行。以後恒例。(資料A2)
  • 818年(弘仁9年):最澄、従来の戒律を「小乗戒」として否定し、戒律を破棄。大乗戒を主張。「六条式」「八条式」を記し、翌年に成立した「四条式」とともに『山家学生式』と呼ばれる。『守護国界章』を記す。九院十六院の構想を表す。(『岩波仏教辞典第二版』資料D)
  • 818年(弘仁9年):円珍、5歳のとき、鬼子母神が出現し、守護することを託宣。(資料W04)
  • 819年(弘仁10年)3月:最澄、比叡山に大乗戒壇の設置を請願。南都の僧侶は連署してこれに反対する。(資料A1)
  • 820年(弘仁11年)2月:最澄、『顕戒論』『内証仏法相承血脈譜』を記す(資料A1)
  • 821年(弘仁12年):最澄、『法華秀句』著す。徳一への論争書。()
  • 822年(弘仁13年)6月4日:最澄、延暦寺中道房で死去。11日、大乗戒壇(延暦寺戒壇院)設立の許可。(資料C1)
  • 823年(弘仁14年)2月:比叡山寺を「延暦寺」と改める。この年6月、初めて最澄の報恩法要である「六月会」を勤修。(資料C1)
  • 823年(弘仁14年):円澄(のち第2代天台座主)、桓武天皇の招請で宮中紫宸殿で秘法を修す。延暦寺の御衣加持御修法(みしほ)の起源。(真言宗の後七日御修法は承和1年(834)創始)(資料D)
  • 824年(天長1年)6月22日:義真、初代天台座主となる。就任をめぐり義真と円澄が争う。(資料D、資料C1)
  • 824年(天長1年)9月3日:義真、延暦寺大講堂を建立。(資料D)
  • 827年(天長4年)5月2日:延暦寺戒壇院建立。(資料C1)
  • 828年(天長5年):最澄の弟子仁徳、甥の円珍を連れて平安京へ。(資料W01)
  • 829年(天長6年)9月29日:円仁、寿命が短いと感じ、比叡山の奥地に草庵を開く。横川地区および首楞厳院(横川中堂)の起源。(資料D、資料C1)
  • 829年(天長6年):円珍、比叡山に入り、義真に師事。(資料W01)
  • 830年(天長7年):勅撰六本宗書、成立。天台宗では、義真が『天台法華宗義集』を著す。(資料A1)
  • 833年(天長10年)4月15日:円珍、延暦寺で受戒。以後、比叡山で十二年籠山行(承和12年(846)まで)(資料C1)
  • 833年(天長10年)6月:義真、円珍を天台座主にすることを遺命するが、大衆の怒りを買い、受け入れず。義真は7月4日死去。(資料C1)
  • 834年(承和1年):円澄、西塔釈迦堂を創建。落慶供養には空海も出仕。(資料D)
  • 835年(承和2年):園城寺西南守護神として藤尾神社を創建。(資料W01)
  • 838年(承和5年):円仁、入唐。(資料B1)
  • 838年(承和5年)冬:円珍、洞窟で修行中に「黄不動」を感得。(『天台宗延暦寺座主円珍伝』、資料W01)
  • 838年(承和5年):四天王寺に別当設置。(資料E)
  • 840年(承和7年)7月5日:播磨国大道寺清妙寺観音寺を天台別院とする。(資料C1)
  • 845年(承和12年):十二年籠山行を終えた円珍、大峰山葛城山熊野三山を巡礼したという。那智の瀧で一千日の参籠修行をしたという。(資料W01)
  • 846年(承和13年)7月27日:円珍、衆議で真言学頭となる(資料W05)
  • 846年(承和13年)8月17日:仁明天皇、延暦寺に定心院を創建。翌年同院に十禅師を置く。(資料C1)
  • 848年(嘉祥1年)3月26日:円仁、10年間の滞在を終え、帰国。(資料C1)(『岩波仏教辞典第二版』では前年。)
  • 848年(嘉祥1年):円仁、日光を訪れるという。(資料E)
  • 850年(嘉祥3年)2月:円仁、仁明天皇のために仁寿殿で文殊八字法を行う(資料B1)
  • 850年(嘉祥3年)3月:円仁、横川に根本観音堂(横川中堂)を創建。(資料B1)
  • 850年(嘉祥3年)春:円珍、山王明神の霊夢を見て、入唐を勧められる。翌年春にも出現。(資料W05)(資料W01では846年(承和13年)とする)
  • 850年(嘉祥3年)4月27日:上野国聖隆寺、延暦寺別院となる。(資料C1)
  • 850年(嘉祥3年)4月:円仁、総持院を建立。(資料C1)
  • 850年(嘉祥3年):円珍、十禅師となる。(資料C1では851年)
  • 850年(嘉祥3年):円仁、中尊寺を創建。(中尊寺ウェブサイト)
  • 850年(嘉祥3年):日光二荒山神社(現在の本社)を創建。(資料E)
  • 851年(仁寿1年)3月:円珍、内供奉十禅師となる。(資料W05、資料C1)(資料Dでは850年)
  • 851年(仁寿1年)4月15日:円珍、入唐のため、京都を出発。海印寺で伯父道雄と面会。(資料W05)
  • 851年(仁寿1年)5月24日:円珍、大宰府に到着。四王院に滞在。(資料W05)
  • 851年(仁寿1年)8月:円仁、常行三昧院を建立。延暦寺で初めて中国五台山伝来の引声念仏を行う。常行三昧の創始ともみなされる。比叡山浄土教、天台浄土教の創始。(資料D)(資料C1では865年8月11日~17日とする)
  • 852年(仁寿2年)1月1日:円珍、この日より入唐帰国まで四王院で毎日『法華経』などを唱えさせる。(資料W05)
  • 853年(仁寿3年)7月16日:円珍、入唐。乗船。(資料C1、資料W05)
  • 853年(仁寿3年)8月15日:円珍、福州連江県に到着。17日福州城入城。21日福州開元寺に宿泊。一ヶ月滞在。(資料W05)
  • 853年(仁寿3年)12月13日:円珍、天台山国清寺に到着。(資料W05)
  • 854年(斉衡1年)2月9日:円珍、天台山禅林寺に滞在。4月まで。(資料W05)
  • 854年(斉衡1年)4月:円仁、第3代天台座主。(資料B1)
  • 854年(斉衡1年)9月7日:円珍、天台山を出発。越州へ。(資料W05)
  • 855年(斉衡2年)5月21日:円珍、洛陽を経て、この日長安に到着。6月以降青龍寺に通う。11月まで長安滞在。(資料W05)
  • 855年(斉衡2年)7月:龍興寺浄土院の雲居房に入る。(資料W05)
  • 855年(斉衡2年)11月:法全から伝法灌頂を受け終わる。27日に長安を離れる。12月に洛陽に到着。(資料W05)
  • 856年(斉衡3年)1月13日:円珍、龍門で金剛智の墓を参詣。15日、洛陽を離れる。(資料W05)
  • 856年(斉衡3年)6月:円珍、再び天台山国清寺に入る。以後、国清寺を拠点に台州内で活動。(資料W05)
  • 856年(斉衡3年)9月、国清寺に「日本国大徳僧院」を建立。(資料W05)
  • 858年(天安2年)6月:台州海門から帰国のため乗船。船中、老翁が出現し新羅明神と名乗り、仏法守護を約束する(『園城寺龍華会縁起』、資料W01)。
  • 858年(天安2年)6月19日:円珍、6年の滞在を終え帰国。肥前国松浦美旻楽崎に到着。22日に博多鴻臚館に到着。のち大宰府に移動し、四王院に滞在。(資料W05)
  • 858年(天安2年)12月27日:円珍、入京して出雲寺に入る。(資料W05)
  • 859年(貞観1年)1月4日:円珍、太政大臣藤原良房などに帰国報告(資料W05)
  • 859年(貞観1年)1月23日:円珍、延暦寺山王院に帰還。(資料W05)
  • 859年(貞観1年):相応、修行の地を求め、比良山の奥地に入り、思古淵神の託宣を受け不動明王を感得し、葛川明王院を創建。比叡山修験の創始。(資料D)
  • 859年(貞観1年):円珍、園城寺を修復し、唐房(唐院)を建立。(資料W05)
  • 860年(貞観2年):円仁、立石寺を創建。(資料C1)
  • 860年(貞観2年)2月:円珍、新羅善神堂創建。(資料W05)
  • 861年(貞観3年):円仁、清和天皇の勅願で延暦寺文殊楼を建立。(資料D)
  • 862年(貞観4年):円仁、長安青龍寺鎮国道場を模して延暦寺法華総持院を建立。(資料D)
  • 862年(貞観4年)3月25日:延暦寺の安慧・常済、十禅師となる。(資料C1)
  • 862年(貞観4年)10月:円珍、園城寺別当に就任(資料W05)。園城寺復興に合わせて鬼子母神が再び出現、園城寺の守護神となり、鬼子母神堂に祀られる(資料W04)。貞観8年(866)春まで園城寺に滞在(資料W05)。
  • 864年(貞観6年)1月14日:円仁死去。(資料C1)
  • 864年(貞観6年)3月27日:最澄と空海に法印大和尚位を追贈。(資料C1)
  • 864年(貞観6年)7月:円珍、宮中仁寿殿で大悲胎蔵灌頂壇を設け、清和天皇、藤原良房に灌頂を授ける。(資料W01)
  • 865年(貞観7年):相応、延暦寺に無動寺を創建。葛川明王院とともに比叡山修験の拠点となる。(資料D)
  • 866年(貞観8年)5月29日:大友夜須良麿が請願し、園城寺を天台別院とする。(資料D資料C1)
  • 866年(貞観8年)5月29日:円珍に真言・止観両宗弘伝の許可(公験)。現在、この日を天台寺門宗の開宗の日とする。(資料W01)
  • 866年(貞観8年)6月21日:「延暦寺禁制四ケ条」(資料C1)
  • 866年(貞観8年)7月14日:最澄に「伝教大師」号、円仁に「慈覚大師」号が下賜される。(資料C1)
  • 866年(貞観8年):円珍、皇太后の護持僧となる。(資料W01)
  • 868年(貞観10年)6月3日:円珍、第5代天台座主となる(資料C1)。同月、園城寺を伝法灌頂の道場とすることが認可され、請来経典を園城寺唐院に移す(資料W05)。
  • 868年(貞観10年):赤山明神が祀られる(『赤山明神縁起』資料K)
  • 868年(貞観10年):円珍、内裏仁寿殿を下賜され、唐から請来した経典仏具を納め、伝法灌頂の道場とする。園城寺唐院の起源。(資料W01)
  • 869年(貞観11年):疫病が流行し、牛頭天王の祟りとして66本の鉾を建てて祀る。一説に祇園祭の創始。(資料K)
  • 872年(貞観14年)9月:円珍を支援した太政大臣藤原良房死去。(資料W05)
  • 876年(貞観18年):八坂神社創建。異説あり。(資料K)
  • 貞観年間:円融坊(三千院)承雲、清和天皇の勅で円融坊を坂本の梶井に移す。(資料E)
  • 878年(元慶2年)8月13日:加賀国石川郡止観寺を天台別院とする。(資料C1)
  • 878年(元慶2年):延暦寺釈迦堂建立。(資料C1)
  • 884年(元慶8年):円珍、『授決集』。(資料A1)
  • 879年(元慶3年)4月:円珍、清涼殿で修法。
  • 879年(元慶3年):聖宝、吉野から熊野に至り、逆峰の入峰を始めるという。(新宮市ウェブサイト)
  • 880年(元慶4年):日吉大社の大宮(西本宮)、正一位となる。(資料D)
  • 881年(元慶5年):10月17日信濃国伊那郡観音寺、天台別院となる。11月9日陸奥国弘隆寺、天台別院となる。(資料C1)
  • 882年(元慶6年):無動寺、天台別院となる。(資料D)
  • 883年(元慶7年)3月26日:円珍、法眼和尚位。天台僧綱の創始。(資料C1)
  • 884年(元慶8年):円珍、最澄の伝記『叡山大師伝』を記す。(資料D)
  • 886年(仁和2年)10月11日:円珍、紫宸殿で修法。(資料C1)
  • 887年(仁和3年):円珍、根本薬師堂・文殊堂・経蔵を一つに統合した根本中堂を建立。(資料D)
  • 888年(仁和4年):延暦寺赤山禅院創建。(資料C1)
  • 890年(寛平2年)12月27日:天台座主円珍、少僧都となる。天台座主僧綱の始まり。(資料C1)
  • 891年(寛平3年)10月29日:円珍、延暦寺山王院で死去。弟子たちは影像2体を造立。うち1体には遺言で遺骨を納め、園城寺唐坊に奉安。もう1体は延暦寺千手院に奉安。(御骨大師)。(「寺門伝記補録」、資料C1、資料W01)
  • 894年(寛平6年)8月:前年建立の延暦寺西塔の常行三昧堂で不断念仏が始まる(資料B1)
  • 902年(延喜2年)4月1日:宇多法皇、延暦寺舎利会に行幸。(資料C1)
  • 902年(延喜2年)11月19日:『天台宗延暦寺座主円珍和尚伝』(資料C1)
  • 904年(延喜4年):安然、園城寺別所近松寺を創建。(資料D)
  • 907年(延喜7年)10月2日:宇多法皇、熊野行幸。熊野行幸の初見。(『日本紀略』資料K)
  • 907年(延喜7年):<中国>唐、滅亡。五代十国の時代へ。(資料A1)
  • 910年(延喜10年)9月25日:宇多法皇、延暦寺に行幸し、灌頂を受ける。(資料C1)
  • 916年(延喜16年):金剛峰寺無空、『三十帖冊子』を携え、園城寺に隠れる。(資料C1)
  • 924年(延長2年)2月18日:新羅明神を比叡山赤山禅院の近くに祀る。(資料C1)
  • 924年(延長2年)4月5日:増命、延暦寺西塔千部法華会を開く。(資料C1)
  • 927年(延長5年)12月27日:円珍に「智証大師」号下賜。(資料C1)
  • 927年(延長5年)12月:延喜式完成。()
  • 931年(承平1年)12月1日:尊意、延暦寺根本中堂で初めて仏名悔過を行う。(資料C1)
  • 934年(承平4年)6月26日:祇園寺に天神堂創始。八坂神社の起源。異説あり。(資料K)
  • 935年(承平5年)3月5日:比叡山、大火災。伽藍焼失。(資料D)
  • 936年(承平6年):<朝鮮>高句麗が朝鮮半島を統一。(資料A1)
  • 938年(天慶1年)8月:根本中堂再建。(資料C1)
  • 938年(天慶1年):空也、入京(資料B1)
  • 940年(天慶3年):平将門の乱、藤原純友の乱の平定祈願のため各寺に祈祷を命じる。延暦寺も応じる。(資料B1)
  • 941年(天慶4年)1月20日:延暦寺法華総持院焼失。(資料C1)
  • 941年(天慶4年)8月:増賀、金峰山で修行中に地獄に赴き、菅原道真醍醐天皇に出会うという。(資料C1)
  • 942年(天慶5年)7月12日:多治比奇子、神託で菅原道真を祀る。北野天満宮の起源。(『帝王編年記』資料K)
  • 天慶年間:是算、西塔北谷に東尾坊を創建。のちの曼殊院門跡の起源。(資料E)
  • 天慶年間:良源、京都北山に廬山寺創建。(資料E)
  • 947年(天暦1年):村上天皇、北野天満宮創建。是算が別当となり、以後曼殊院門跡が就任。(資料E)
  • 948年(天暦2年)4月:空也、延暦寺で受戒。(資料B1)
  • 948年(天暦2年)10月1日:多武峰寺法華八講恒例となる。このころ延暦寺末となる。(『多武峰略記』資料K)
  • 949年(天暦3年)1月:延暦寺根本中堂焼失。(資料B1)
  • 陽成天皇、園城寺に弥勒菩薩を奉納という。(資料W01)
  • 950年(天暦4年):良源、護持僧となり、憲仁親王(のちの冷泉天皇)誕生の祈祷を行う。その外祖父藤原師輔の庇護を得る。(資料D)
  • 954年(天暦8年)10月:藤原師輔、横川に法華三昧堂を建て良源に寄進。以後、師輔の援助で横川の整備が進む。(資料B1)
  • 954年(天暦8年)12月:良源、法華八講を行う。(資料B1)
  • 957年(天徳1年)5月:良源、初めて七仏薬師法を行う。(資料B1)
  • 960年(天徳4年):<中国>宋(北宋)興る。(資料A1)
  • 963年(応和3年):空也、賀茂の河原で「金字般若経」供養。(資料B1)
  • 963年(応和3年):応和の宗論。宮中の法華八講をめぐり天台宗良源と法相宗法蔵が対立。(資料A1)
  • 964年(康保1年)3月:天台宗ら、勧学会始める。(資料B1)
  • 964年(康保1年)12月10日:多武峰寺法華堂で初めて法華三昧を行う。(資料C1)
  • 965年(康保2年)3月20日:崇福寺焼失。(資料C1)
  • 966年(康保3年)8月27日:良源、第8代天台座主。(資料C1)
  • 966年(康保3年)10月28日:比叡山で大火災。伽藍焼失。(資料D、資料C1)
  • 967年(康保4年)5月:延暦寺僧侶をもって四天王寺別当に任命する(資料C1)。四天王寺の末寺化の始まり。
  • 967年(康保4年):延暦寺法華会を初めて執行。以後恒例。(資料A2)
  • 968年(安和1年)1月:楞厳三昧院で法華三昧、常行三昧を行う。(資料B1)
  • 968年(安和1年)2月:良源、楞厳三昧院検校となる。(資料B1)
  • 970年(天禄1年)7月:良源「二十六箇条制式」を制定。僧侶の武装を禁止していることから当時既に僧兵が出現しつつあったことが分かる。(資料D)
  • 970年(天禄1年)9月8日:金峰山寺、焼失。(資料C1)
  • 972年(天禄3年)1月:延暦寺の横川地区が東塔・西塔を並ぶ三塔の一つとして独立。(資料B1)
  • 972年(天禄3年)5月:良源「遺告」。(資料B1)
  • 972年(天禄3年):良源、根本中堂の三灯を統合させて一灯とする(資料C1)
  • 972年(天禄3年)9月:空也死去。(資料B1)
  • 972年(天禄3年):祇園社日吉大社の末社となる。(資料B1)
  • 974年(天延2年)5月7日:感神院、延暦寺別院となる。(『日本紀略』資料K)
  • 975年(天延3年)1月14日:延暦寺で初めて慈覚大師供を行う。(資料C1)
  • 977年(貞元2年)3月:良源、延暦寺で舎利会を行う。(資料B1)
  • 979年(天元2年):藤原兼家、延暦寺横川に恵心院を創建。(資料B1)
  • 980年(天元3年)9月20日:良源、延暦寺根本中堂再建。円融天皇行幸。966年(康保3年)の火災で焼失した伽藍の復興がなる。(資料D)
  • 981年(天元4年)8月:良源、大僧正となる。

古代3:山門派と寺門派の対立と抗争

比叡山の興隆

  • 981年(天元4年)12月:円仁の弟子たちと円珍の弟子たちが、法性寺座主職を争い、円仁の弟子たちが勝つ。代々円仁系が就任してきたがこの年円珍系の鈴慶が就任した。これに円仁の弟子が抗議し鈴慶はすぐに辞任した。この騒動で円仁門徒と円珍門徒の対立が決定的となる。(資料D)
  • 982年(天元5年)10月:慶滋保胤、『池亭記』記す。(資料B1)
  • 983年(永観1年)10月:藤原兼家、延暦寺横川に薬師堂を建立。(資料B1)
  • 985年(寛和1年)1月3日:良源死去。1月3日に亡くなったため後世「元三大師」と呼ばれる。(資料B1)
  • 985年(寛和1年)2月27日:藤原師輔の子尋禅が天台座主となる(資料C1)。貴族の天台座主就任の始まり。(資料B1)
  • 985年(寛和1年)4月:源信が『往生要集』を著す。この頃、慶滋保胤が『日本往生極楽記』を著す。(資料B1)
  • 985年(寛和1年)10月:叡桓、横川飯室谷に念仏道場として安楽院を創建。(資料B1)
  • 985年(寛和1年)10月7日:藤原秀孝、書写山に法華堂を建立。(資料C1)
  • 986年(寛和2年)9月16日:花山法皇、延暦寺で受戒。(資料C1)
  • 986年(寛和2年)10月20日:恵心院、御願寺となる。(資料C1)
  • 986年(寛和2年):源信ら、横川で念仏集団「二十五三昧会」を結成。(資料D)
  • 987年(永延1年)2月16日:良源に「慈恵大師」号下賜。(資料C1)
  • 987年(永延1年)5月26日:書写山円教寺、花山法皇の御願寺となる。(資料C1)
  • 987年(永延1年):チョウ然、釈迦如来(清凉寺釈迦如来)を奉じて帰国(資料A1)
  • 988年(永延2年)6月:源信が『二十五三昧起請』記す。(資料B1)
  • 988年(永延2年)10月29日:円融法皇、延暦寺で受戒。(資料C1)
  • 988年(永延2年):性空、書写山円教寺を創建。(資料C1)
  • 988年(永延2年):愛宕山(清凉寺?)戒壇設置の動き、延暦寺の抗議で中止。(資料C1)
  • 989年(永祚1年)9月29日:永祚宣命事件。円珍系の余慶が天台座主に任命されたが、円仁系の僧侶が就任の宣命を伝える天皇の使者を妨害。余慶は寺務の執行ができなかった。余慶は12月20日辞任。(資料D資料C1)
  • 990年(正暦1年):尋禅、自坊の飯室谷の妙香院に父藤原師輔から与えられた荘園を寄進し、2月14日一条天皇の御願寺とした。同時に不動堂を建立し、これがのちの飯室不動堂となったとされる。(資料D資料C1)
  • 991年:花山法皇、熊野行幸。西国三十三所霊場を復興したとされる。(新宮市ウェブサイト)
  • 992年(正暦3年):真如堂創建。(資料C1)
  • 993年(正暦4年)8月8日:円仁系と円珍系の僧侶が争乱。円珍の門徒らが延暦寺を下り園城寺に入る。延暦寺千手院の円珍像を園城寺唐坊に奉遷。日本天台宗、延暦寺を本山とする山門派と園城寺を本山とする寺門派に別れる。(資料C1、資料W01)
  • 993年(正暦4年):慶祚、園城寺別所として尾蔵寺を創建。(資料D)
  • 994年(正暦5年):慶祚、園城寺別所として微妙寺を創建。(資料D)
  • 997年(長徳3年)4月17日:天台宗学僧が宋から送った法華示指珠等五部の新書を破棄。(資料C1)
  • 997年(長徳3年)5月:源信、『観心略要集』記す。(資料B1)
  • 997年(長徳3年)9月:信弘・平山、鸚鵡花綬鏡を三仏寺に奉納。(資料B1)
  • 997年(長徳3年):明尊、園城寺別所として常在寺を創建。(資料D)
  • 1001年(長保3年):源信、聖衆来迎寺に入寺して復興。(資料D)
  • 1002年(長保4年)3月6日:花山法皇、書写山円教寺に行幸し、性空の像を写させる。(資料C1)
  • 1002年(長保4年)10月:慶滋保胤死去。(資料B1)
  • 1003年(長保5年)8月5日:源信、入宋する寂昭に『天台宗疑問二十七条』を託して中国天台宗の名僧知礼に問う。知礼答える。(『岩波仏教辞典第二版』資料C1)
  • 1003年(長保5年):多武峰寺増賀死去(資料A1)
  • 1005年(寛弘2年)5月3日:行円、行願寺を建立?前年とも。(資料C1)
  • 1006年(寛弘3年)7月27日:藤原道長、法性寺五大堂を建立。(資料C1)
  • 1007年(寛弘4年)2月15日:尋禅に「慈忍」、余慶に「智弁」の諡号を贈る。(資料C1)
  • 1007年(寛弘4年)3月10日:性空死去。(資料C1)
  • 1007年(寛弘4年)8月11日:藤原道長吉野参詣。金峰山の山頂に経筒を埋納。(資料C1)
  • 1007年(寛弘4年):覚運死去(資料A1)
  • 1009年(寛弘6年)5月17日:藤原道長、比叡山で舎利会を行う。(資料C1)
  • 1012年(長和1年)4月5日:藤原道長、延暦寺参拝。(資料C1)
  • 1012年(長和1年)9月11日:源信、広隆寺で声明念仏を始める。(資料C1)
  • 1013年(長和2年)9月14日:宋国清寺、念救に託して延暦寺に智顗御影を送る。(資料C1)
  • 1013年(長和2年):寂源、大原に勝林院を創建。(資料B1)
  • 1014年(長和3年)7月:藤原頼通、吉野参詣。(資料B1)
  • 1014年(長和3年)12月:慶円、天台座主。(資料B1)
  • 1015年(長和4年)5月22日:座主慶円、故権律師賀静の贈官の中止を求める。(資料C1)
  • 1015年(長和4年)8月22日:藤原道長、座主慶円と不和。(資料C1)
  • 1016年(長和5年)3月16日:チョウ然死去。(資料C1)
  • 1016年(長和5年)5月1日:三条上皇、延暦寺に行幸(資料C1)
  • 1017年(寛仁1年)6月11日:源信死去。(資料C1)
  • 1017年(寛仁1年)10月28日:園城寺、円珍遠忌で法華十講を行い、初めて竪義を行う。藤原道長・頼通が参列。(資料C1、資料W01)
  • 1019年3月21日:藤原道長、病気に苦しみ出家。(『日本大百科全書』)
  • 7月16日:藤原道長、法成寺の建設を開始。(『日本大百科全書』)
  • 1019年(寛仁3年)11月21日:心誉の請願で、園城寺唐院に阿闍梨五人を置く。(資料C1)
  • 1020年(寛仁4年)3月22日:法成寺阿弥陀堂が本堂に先行して(?)建立。無量寿院と称す。(『平安京提要』)
  • 1020年(寛仁4年)11月12日:延暦寺賀茂神社と所領を争う。(『小右記』資料K)
  • 1020年(寛仁4年)12月14日:藤原道長、延暦寺で受戒。20日、千僧供養を行う。(資料C1)
  • 1021年:藤原道長北方の倫子、出家。彼女のために法成寺の西北に常行堂建立。西北院と称す。(資料B1)
  • 1022年(治安2年)7月14日:藤原道長、法成寺創建。落慶法要に後一条天皇が行幸。(資料B1、資料C1)
  • 1022年(治安2年)11月2日:崇福寺焼失。(資料C1)
  • 1022年(治安2年)11月23日:藤原道長、延暦寺根本中堂に参拝。(資料C1)
  • 1023年(治安3年)4月5日:延暦寺、賀茂神社と所領を争う。(資料C1)
  • 1025年(万寿2年)3月12日:日吉大社で山王礼拝講が始まる。延暦寺の僧侶が最澄の遺誡に背いたため山王権現がこの地を去ると託宣したので、神慮を慰めるために法華八講を始めたのが起源という。(「御礼拝講記」『耀天記』資料K資料D)
  • 1025年(万寿2年)10月27日:延暦寺定心院焼失。(資料C1)
  • 1025年(万寿2年)12月8日:法成寺に尼僧戒壇設置を計画。(資料C1)
  • 1027年(万寿4年)3月27日:法成寺尼僧戒壇設置計画について延暦寺僧徒が騒ぐ。(資料C1)
  • 1027年(万寿4年)12月4日:藤原道長、法成寺阿弥陀堂で死去。(資料C1)
  • 藤原道長、園城寺に弥勒菩薩に奉納という。(『資料W01』)
  • 1028年(長元1年)3月7日:藤原頼通、延暦寺に道長の遺品の仏具を収める。(資料C1)
  • 1028年(長元1年)3月:藤原頼通、延暦寺で薬師法。
  • 1028年(長元1年)10月13日:金峰山寺僧徒、大和守藤原保昌の非法を訴える。(資料C1)
  • 1028年(長元1年):<中国>知礼死去。(資料A1)
  • 1029年(長元2年)5月19日:金峰山寺検校を尋問。(資料C1)
  • 1030年:藤原道長娘で一条天皇中宮の彰子、法成寺に東北院創建。()
  • 1031年(長元4年):書写山円教寺、十二箇条の起請文を定める。(資料C1)
  • 1034年(長元7年):園城寺で初めて内論議。(資料C1)
  • 1035年(長元8年)3月7日:園城寺三尾神社祭礼に延暦寺僧徒が襲来し、闘争。(資料C1)
  • 1038年(長暦2年)10月27日:延暦寺僧徒、園城寺明尊の天台座主就任に抗議して京都に押しかける。天台座主空席のため、この年は受戒停止となる。(資料C1)
  • 1039年(長暦3年)2月18日:延暦寺僧徒、藤原頼通に強訴。(資料C1)
  • 1039年(長暦3年)3月16日:延暦寺僧徒、高陽院に放火。(資料C1)
  • 1039年(長暦3年)5月:園城寺、戒壇設置を請願。以後、200年以上にわたって請願を続ける。(資料B1)(資料C1では3月)
  • 1039年(長暦3年):明尊、円満院を創建。(資料D)
  • 1040年(長久1年)5月20日:戒壇をめぐり、園城寺僧徒が騒ぐ。(資料C1)
  • 1040年(長久1年):このころ、鎮源『大日本法華経験記』著す。(資料B1)
  • 1040年(長久1年):明尊、園城寺別所として水観寺を創建。(資料D)
  • 1041年(長久2年)5月14日:朝廷は諸宗に園城寺の戒壇設置請願について下問し、延暦寺のみが反対する。(資料C1)
  • 1042年(長久3年)3月10日:延暦寺衆徒、園城寺円満院を焼き討ち。(資料C1)
  • 1044年(寛徳1年)3月23日:阿古也聖、『法華経』6万9384部を延暦寺に納める。(資料C1)
  • 1048年(永承3年)8月11日:明尊が天台座主となるが、延暦寺僧徒が反対したのですぐに辞任。22日源心が天台座主となる。(資料C1)
  • 1049年(永承4年)4月28日:検非違使、罪人を追って感神院境内に侵入。衆徒これに抗議。(資料C1)
  • 1049年(永承4年)7月1日:藤原頼通、金峰山参詣。(資料C1)
  • 1049年(永承4年)10月27日:大僧都円縁、金峰山検校となる。(資料C1)
  • 1051年(永承6年)4月:延暦寺、不断経を始める。(資料B1)
  • 1051年(永承6年):前九年の役始まる。源頼義、安倍氏征討にあたり園城寺新羅善神堂で戦勝祈願。(資料D)

末法思想の興隆

  • 1052年(永承7年)3月28日:藤原頼通、宇治の別荘を平等院とする。のち園城寺末となる。(資料C1)
  • 1052年(永承7年):この頃から末法思想が盛んとなる。(資料A1)
  • 1052年(永承7年)9月19日:明尊、初めて新羅明神祭。(『寺門伝記補録』資料K)
  • 1053年(天喜1年)3月4日:平等院鳳凰堂建立。(資料C1)
  • 1053年(天喜1年)9月26日:源泉を天台座主とするが、直ちに撤回し、29日、明快を補任。(資料C1)
  • 1053年(天喜1年)10月:源心死去。(資料B1)
  • 1054年(天喜2年):明尊、園城寺に新日吉神社(長等神社)を創建。(『園城寺伝記』資料K)
  • 1056年(天喜4年)10月:平等院法華堂。(資料B1)
  • 1058年(康平1年)2月23日:法成寺焼失。(資料C1)
  • 1059年(康平2年)8月:園城寺龍華会。(資料B1)
  • 1059年(康平2年)10月12日:藤原頼通、法成寺の阿弥陀堂と五大堂を再建、落慶法要(資料C1)
  • 1061年(康平4年)9月:法成寺東北院で不断念仏。以後恒例。(資料B1)
  • 1062年(康平5年):前九年の役終わる。源頼義は戦勝祈願の報賽のため、子を園城寺で出家させて快誉とした。また子の源義光は新羅善神堂前で元服し新羅三郎と呼ばれる。(資料D)
  • 1062年(康平5年):実相院創建(資料C1)
  • 1063年(康平6年)4月3日:源頼義、園城寺に鴿尾八幡宮を創建。(資料C1)
  • 1065年(治暦1年)10月18日:法成寺金堂供養に後冷泉天皇行幸。(資料B1、資料C1)
  • 1066年(治暦2年)10月:藤原師実、平等院五大堂。(資料B1)
  • 1067年(治暦3年)1月10日:日吉大社焼失。(資料C1)
  • 1069年(延久1年)5月29日:藤原頼通、平等院で一切経会。(資料C1)
  • 1070年(延久2年)6月29日:園城寺戒壇設置問題で、諸宗の意見を問う。(資料C1)
  • 1070年(延久2年)10月14日:祇園社焼失。(資料C1)
  • 1071年(延久3年)10月29日:後三条天皇、日吉大社行幸。日吉大社行幸の初見。(『扶桑略記』資料K)
  • 1072年(延久4年)3月26日:祇園社行幸の初見。稲荷大社にも。(『扶桑略記』資料K)
  • 1072年(延久4年):日吉大社山王祭に初めて官幣が奉納される。(資料D)
  • 1072年(延久4年):成尋入宋。『参天台五台山記』(資料A1)
  • 1072年(延久4年):円宗寺法華会、初めて執行。以後恒例。(資料A2)
  • 1073年(延久5年)3月27日:後三条法皇、園城寺新羅明神に病気平癒を祈願。(資料C1)
  • 1075年(承保2年)2月:園城寺戒壇設置問題で、延暦寺と園城寺の僧侶が抗争。(資料B1)
  • 1077年(承暦1年)2月5日:覚円が天台座主になるが、直ちに覚尋に変更となる。(資料C1)
  • 1077年(承暦1年)12月18日:法勝寺創建。(資料C1)
  • 1078年(承暦2年)10月:法勝寺で大乗会始まる。(資料B1)
  • 1079年(承暦3年)6月:延暦寺衆徒、感神院別当の交代を求めて強訴。(資料B1)
  • 1079年(承暦3年)12月4日:浅草寺焼失。(資料C1)
  • 1081年(永保1年)3月:多武峰寺、興福寺と対立を深める。5日、興福寺僧が多武峰の民家を焼く。25日多武峰の僧徒、京都に強訴。(資料C1)
  • 1081年(永保1年)4月:延暦寺と園城寺の抗争激化。分裂以後、最初の大きな争乱。大津浦の神人の貴族をめぐって争う。15日、園城寺僧徒、日吉祭を妨害。28日、延暦寺僧徒が園城寺を襲撃、放火してほとんどの伽藍が焼失。6月9日再び延暦寺が園城寺を襲撃。7月6日、園城寺、戒壇設置を請願。(『扶桑略記』『為房卿記』資料K資料D資料C1)
  • 1081年(永保1年)9月:検非違使および源義家に園城寺の悪僧を追補させる(資料B1)
  • 1082年(永保2年)9月:戒覚、入宋。(資料B1)
  • 1082年(永保2年)10月17日:熊野僧徒、神輿を奉じて入京。強訴。以降、各地の社寺の強訴が頻発。(『扶桑略記』資料K)
  • 1083年(永保3年)9月:後三年の役。(資料K)
  • 1083年:熊野信仰で「三所権現」の語、初出。この頃までには熊野三山が成立。(新宮市ウェブサイト)
  • 1084年(応徳1年)4月11日:園城寺金堂再建。(資料C1)
  • 1086年(応徳3年):白河上皇院政開始。院政時代の始まり。またこの頃から100年間にわたり熊野行幸が盛んとなる。白河上皇、鳥羽上皇、後白河上皇、後鳥羽上皇。(資料K)
  • 1086年(応徳3年):<朝鮮>義天、宋より高句麗に戻り、華厳宗、天台宗を広める。朝鮮天台宗の始まり。(資料B1)
  • 1086年:仁豪、梶井円徳院を創建(三千院の前身の一つ)(三千院ウェブサイト)
  • 1090年(寛治4年)1月:白河上皇、熊野行幸。熊野三山検校を設置し、増誉を任命、聖護院創建。(資料B1)
  • 1092年(寛治6年)5月26日:検非違使と延暦寺僧徒が争う。(資料C1)
  • 1092年(寛治6年)9月28日:延暦寺僧徒の訴えで藤原為房を安房に、藤原仲実を安芸に流す。(資料C1)
  • 1093年(寛治7年)3月18日:熊野先達、禁中に乱入。(『中右記』資料K)
  • 1093年(寛治7年)11月3日:興福寺僧徒、金峰山寺を襲撃。(資料C1)
  • 1094年(嘉保1年)3月6日:鞍馬寺僧徒と賀茂神社神人が闘争。朝廷が審議。(『中右記』『百錬抄』資料K)
  • 1094年(嘉保1年)閏3月:伯耆大山伯耆・大山寺僧徒、上皇に天台座主を訴える(資料B1)
  • 1094年(嘉保1年)5月:英彦山僧徒、蜂起(資料C1)
  • 1095年(嘉保2年)10月23日:延暦寺僧徒、源義綱の流罪を求めて強訴。神輿動座の始まり。(『岩波仏教辞典 第二版』資料C1)
  • 1096年(永長1年)3月10日:熊野本宮大社焼失。(資料C1)
  • 1096年(永長1年)3月18日:慈応、広く勧進写経を行い、金峰山寺に奉納。(資料C1)
  • 1097年(承徳1年)8月16日:皇太子誕生祈願のため、良意、金峰山で宸筆仁王経を供養。(資料C1)
  • 1098年(承徳2年)6月20日:園城寺門徒、法成寺執行に円珍門徒の就任を求める。(資料C1)
  • 1099年(康和1年)1月3日:仁和寺覚行を親王とする。法親王の始まり。(資料C1)
  • 1100年(康和2年)6月7日:園城寺僧徒、長吏の坊舎を焼く。(資料C1)
  • 1101年(康和3年)4月:興福寺僧徒と金峰山寺僧徒が争う(資料B1)
  • 1102年(康和4年)5月8日:延暦寺僧徒と園城寺僧徒が、法成寺長吏職をめぐり抗争。(資料C1)
  • 1103年:増誉、聖護院熊野神社創建(新宮市ウェブサイト)
  • 1104年(長治1年)10月:源義家に延暦寺悪僧を捉えさせる。(資料B1)
  • 1105年(長治2年)2月15日:この頃、藤原清衡、平泉に移り、中尊寺造営に着手(資料C1、中尊寺ウェブサイト)
  • 1105年(長治2年)10月30日:日吉神人と延暦寺僧徒、大宰帥藤原季仲を訴え、季仲は流罪となる。(『殿暦』資料K)
  • 1106年(嘉承1年)1月:堀河天皇、病気平癒祈願で円宗寺に等身延命地蔵像100体奉納。(資料B1)
  • 1106年(嘉承1年)10月2日:八坂神社神人が内大臣雅実を呪詛したとして、天台座主永範を罷免。(『殿暦』『永昌記』資料K)
  • 1106年(嘉承1年):この頃、皇円の『扶桑略記』成立(『岩波仏教辞典 第二版』)
  • 1108年(天仁1年)9月10日:多武峰寺、興福寺の焼き討ちを受ける。多武峰寺、延暦寺に支援を求め、南都北嶺の緊張が高まる。(資料D資料C1)
  • 1109年(天仁2年)5月:延暦寺僧徒、興福寺末の清水寺別当を訴える。(資料B1)
  • 1109年(天仁2年):良忍、大原に来迎院浄蓮華院を創建。(三千院ウェブサイト)
  • 天仁年間:北野天満宮別当寺、曼殊院を称す。(資料E)
  • 1110年(天永1年):白河法皇、法勝寺に紺紙金泥一切経を奉納(資料B1)
  • 1111年(天永2年)5月21日:法皇、法勝寺に行幸し法華三十講(資料C1)
  • 1111年(天永2年):大江匡房、『続本朝往生伝』(資料B1)
  • 1113年(永久1年)閏3月:延暦寺僧徒と興福寺僧徒が清水寺別当人事をめぐって争い、狼藉・強訴を繰り返す。(資料B1)
  • 1114年(永久2年)7月6日:延暦寺僧徒の武器所持を禁止。(資料C1)
  • 1114年(永久2年)11月9日:八坂神社神人と石清水八幡宮神人が闘争。(『中右記』資料K)
  • 1115年(永久3年)4月21日:日吉大社、初めて三宮の神輿を調進。山王七社成立の下限とされる。(『耀天記』資料K)
  • 1115年(永久3年):忠尋、十楽院を創建。(資料C1)
  • 1116年(永久4年)1月29日:増誉死去。(資料C1)
  • 1117年:良忍、融通念仏の偈を感得。(末木文美士『日本仏教史』年表)
  • 永久年間:曼殊院、京都北山に移転。(資料E)
  • 1118年(元永1年)12月:最勝寺創建。(資料B1)
  • 1120年(保安1年):延暦寺と園城寺争う。領地をめぐって園城寺僧が延暦寺僧を殺害。延暦寺僧徒は園城寺を襲撃し、伽藍を全て焼き討ちにした。周辺の民家も多数焼失した。(資料D)
  • 1120年(保安1年)4月29日:白河法皇、延暦寺・園城寺の濫行禁止命じる(資料C1)
  • 1121年(保安2年)5月27日:園城寺僧徒、延暦寺の修学僧を殺害。翌閏5月、延暦寺僧徒が園城寺を襲撃し、伽藍を焼き討ち。(資料C1)
  • 1121年(保安2年)6月:白河法皇、熊野で一切経供養。(資料B1)
  • 1122年(保安3年)4月23日:白河法皇、法勝寺で五寸塔三十万基供養。(資料C1)
  • 1122年(保安3年)8月9日:延暦寺衆徒、座主を追放。(資料C1)
  • 1123年(保安4年)7月18日:延暦寺僧徒、日吉大社神輿を奉じて、座主寛慶を追い入京しようとするが、平忠盛と源為義が阻止。(『百錬抄』資料K)
  • 1124年(天治1年)6月9日:良忍、融通念仏を始める。(資料C1)(『岩波仏教辞典 第二版』では1117年とする)
  • 1124年(天治1年)8月20日:藤原清衡、中尊寺に金色堂を上棟。(中尊寺ウェブサイト)(資料C1では建立とする)
  • 1125年(天治2年)12月:京都大火。六角堂焼失。(資料B1)
  • 1126年(大治1年)12月19日:鞍馬寺焼失。(資料C1)
  • 1126年3月23日:藤原清衡、中尊寺金色堂の落慶法要を実施。(中尊寺ウェブサイト)
  • 1127年(大治2年):<中国>南宋成立。(『岩波仏教辞典 第二版』)
  • 1128年(大治3年)3月:待賢門院御願寺の円勝寺創建(資料B1)
  • 1129年11月20日:熊野新宮の僧徒、高野山の住民と合戦。熊野側4人死傷。(新宮市ウェブサイト)
  • 1130年:最雲法親王、梶井門跡を継ぐ。法親王就任の始まり。(三千院ウェブサイト)
  • 1132年(長承1年)2月:良忍死去。(資料B1)
  • 1132年(長承1年)3月:鳥羽上皇のために平忠盛が得長寿院三十三間堂を建立(資料B1)
  • 1133年(長承2年)7月:延暦寺西塔の学徒が根本中堂の僧徒と争う(資料B1)
  • 1134年(長承3年)8月:園城寺金堂再建。(資料W01)
  • 1135年(保延1年)4月:得長寿院百体観音建立。(資料B1)
  • 1138年(保延4年)4月29日:延暦寺僧徒、神輿を奉じて入京。賀茂神社社領と日吉祭馬上衆について強訴。(『百錬抄』資料K)
  • 1138年(保延4年):延暦寺と園城寺争う(資料D)
  • 1139年(保延5年)10月:成勝寺創建。(資料B1)
  • 1140年(保延6年):延暦寺僧兵が園城寺を襲撃。閏5月25日、同28日、7月16日の三度にわたり合戦。(資料D)
  • 1142年(康治1年):延暦寺と園城寺の僧徒の対立激化。3月16日園城寺僧徒、延暦寺を襲い、伽藍を焼く。(資料C1)
  • 1142年(康治1年)5月11日:鳥羽法皇、東大寺、ついで延暦寺で受戒。(資料C1)
  • 1145年(久安1年)7月:興福寺僧徒、金峰山を攻める。9月まで。(資料C1)
  • 1145年(久安1年):法然が比叡山に入る(資料B1)
  • 1146年(久安2年):鳥羽法皇、四天王寺参詣。(資料B1)
  • 1146年(久安2年)4月7日:加賀白山を延暦寺別院とする。(資料K)
  • 1146年(久安2年)4月25日:金峰山寺僧徒、大和宇智郡司と戦闘(資料C1)
  • 1146年(久安2年)8月:延暦寺堂衆、根本中堂の学僧と戦う。(資料C1)
  • 1147年(久安3年)2月:法然、比叡山に入る。(資料C1)
  • 1147年(久安3年)4月7日:延暦寺衆徒、越前の白山神社を延暦寺末とするように請願(資料C1)
  • 1147年(久安3年)6月15日、平清盛の従者が八坂神社神人と争乱。延暦寺衆徒、神輿を奉じて入京、平忠盛・平清盛の流罪を求める。(『台記』、資料B1、資料K)
  • 1147年(久安3年)10月30日:延暦寺僧徒に追放された行玄が天台座主に復す。(資料C1)
  • 1148年(久安4年):三千院本堂落慶。(資料B1)
  • 1148年(久安4年)2月17日:京都大火。法成寺・法興院焼失。(資料C1)
  • 1148年(久安4年)2月20日:法皇、前年の八坂神社神人と平氏の争乱を謝すため、感神院で法華八講を執行。以後、恒例行事。(『本朝世紀』資料K)
  • 1148年(久安4年)3月15日:八坂神社で初めての一切経会(『濫觴抄』資料K)
  • 1148年(久安4年)3月29日:八坂神社、焼失。(資料C1)
  • 1148年(久安4年)11月:園城寺金堂、上棟。(資料W01)
  • 1149年(久安5年):延勝寺創建(資料B1)
  • 1150年(久安6年)9月16日:西塔と横川の抗争を禁止(資料C1)
  • 1150年(久安6年)10月:行玄、鳥羽法皇の帰依を受け、延暦寺青蓮坊を御祈願所とし、皇子覚快法親王を弟子とさせ、京都に院御所に準じて殿舎を建て青蓮院門跡とする。(資料E『仏教文化大辞典』)
  • 1150年(久安6年):法然、青龍寺の叡空に入門。(資料D)
  • 1151年(仁平1年):藤原宗友、『本朝新修往生伝』(資料B1)
  • 1152年(仁平2年)5月:平清盛、大般若経を書写して伯耆の大山寺に奉納。(資料C1)
  • 1152年(仁平2年)9月:白山比咩神社、延暦寺末となる(資料B1)
  • 1152年(仁平2年):鳥羽法皇、千体阿弥陀仏を蓮華蔵院に建立。(資料B1)
  • 1153年(仁平3年):静誉を法橋とする。那智山僧綱の始め。(資料C1)
  • 1154年(久寿1年)9月7日:延暦寺僧徒、強訴。(資料C1)
  • 1155年(久寿2年):この頃、栄西が比叡山に入る。(『別冊太陽 比叡山』年表)
  • 1156年(保元1年)7月11日:保元の乱。(資料K)
  • 1156年:梶井門跡(三千院)最雲法親王、天台座主となる。法親王が座主に着く始まり。大原寺を兼務し、梶井門跡の政所が設置される。大原は梶井門跡の管轄下となる。(三千院ウェブサイト)
  • 1158年(保元3年)3月:最雲、延暦寺根本中堂の七仏薬師法を行う。親王に任じられる。山法親王の始まり。(資料C1)
  • 1158年(保元3年)6月18日:天台座主に命じて、延暦寺衆徒の蜂起を禁止。(資料C1)
  • 1159年(平治1年)2月:平清盛、白河千体阿弥陀堂落慶。(資料B1)
  • 1159年(平治1年)12月:平治の乱。(資料K)
  • 1159年(平治1年)12月4日:平清盛、熊野参詣。(資料C1)
  • 1159年:行慶、園城寺に熊野神社を祀る。(新宮市ウェブサイト)
  • 1160年(永暦1年)6月13日:延暦寺東塔と西塔が抗争。西塔が勝利。(資料C1)
  • 1160年(永暦1年)7月13日:仁和寺守覚と天台座主最雲法親王従者が戦闘。(資料C1)
  • 1160年(永暦1年)10月12日:延暦寺僧徒、入京。(資料C1)
  • 1160年(永暦1年)10月16日:新熊野神社新日吉神社を創建。(『百錬抄』資料K)
  • 1160年:延暦寺本覚院昌雲、新日吉検校となり、妙法院を創建。(京都市ウェブサイト)
  • 1160年(永暦1年):白水阿弥陀堂竣工。(資料B1)
  • 1161年(応保1年):園城寺長吏覚忠、西国霊場を巡礼。西国霊場の最古の記録。(資料B1)
  • 1162年(応保2年)閏2月:延暦寺僧徒、園城寺長吏覚忠の天台座主就任に抗議して蜂起。(資料B1)
  • 1162年(応保2年)11月27日:延暦寺僧徒、安楽寺を末寺とすることを請うも不許可。(資料C1)
  • 1163年(長寛1年):延暦寺と園城寺が争う。園城寺僧が東大寺戒壇院で受戒しようとしたことに対し、延暦寺が抗議。延暦寺僧兵が園城寺を襲撃。末寺の崇福寺や梵釈寺も焼き討ちにした。(資料D)
  • 1163年(長寛1年)3月3日:朝廷、園城寺の僧は、延暦寺で受戒することを命じて武装を禁止する。(資料C1)
  • 1163年(長寛1年)4月7日:伊勢神宮と熊野権現が同体なのかを諮問。(「長寛勘文」資料C1)
  • 1163年(長寛1年)5月:興福寺、延暦寺を末寺とすることを請願。(資料B1)
  • 1163年(長寛1年)6月9日:延暦寺僧徒、園城寺を焼く。(資料C1)
  • 1164年(長寛2年)10月:延暦寺衆徒、座主快修を追放。(資料B1)
  • 1164年(長寛2年):蓮華王院落慶。(『岩波仏教辞典 第二版』)
  • 1165年(永万1年)8月7日:二条天皇の葬儀で、興福寺と延暦寺が席次を争う。(資料C1)
  • 1165年(永万1年)8月9日:延暦寺僧徒、清水寺を焼く。(資料C1)
  • 1167年(仁安2年)1月1日:天台座主職をめぐり、延暦寺東塔と西塔の僧徒が争う。(資料C1)
  • 1168年(仁安3年)2月11日:平清盛、出家。(資料C1)
  • 1168年(仁安3年)4月:栄西、第1回目入宋。9月重源とともに帰国(『岩波仏教辞典 第二版』)
  • 1169年(嘉応1年)2月5日:横川中堂焼失。(資料C1)
  • 1169年(嘉応1年)4月:平泉中尊寺に石造五輪塔が造られる。現存最古の五輪塔。(資料B1)
  • 1169年(嘉応1年)4月21日:興福寺、金峰山寺衆徒の通行を妨害。(資料C1)
  • 1169年(嘉応1年)10月12日:横川中堂復興。(資料C1)
  • 1169年(嘉応1年)12月23日:延暦寺僧徒、神輿を奉じて内裏に接近。藤原成親を訴え、翌日、流罪となる。(『玉葉』資料K)
  • 1170年(嘉応2年)1月23日:延暦寺僧徒、藤原成親の配流と平時忠・平信範の召還を求める。(資料C1)
  • 1170年(嘉応2年)5月25日:青蓮院覚快、法性寺座主とし、法親王となる。青蓮院の親王の始まり。(資料C1)
  • 1172年(承安2年)3月15日:法皇、平清盛の福原邸で千僧供養。(資料C1)
  • 1172年(承安2年)8月13日:延暦寺僧徒、祇陀林寺を襲撃。(資料C1)
  • 1172年(承安2年)8月24日:多武峰寺、興福寺と不和。(資料C1)
  • 1174年(承安3年)5月20日:延暦寺僧徒、興福寺荘園の一部を押領。(資料C1)
  • 1174年(承安3年)6月25日:興福寺僧徒、多武峰寺を焼く。(資料C1)

中世1:新興宗派の台頭と弾圧

  • 1174年:源義経平泉に下る。(中尊寺ウェブサイト)
  • 1175年(安元1年)春:法然、専修念仏を唱える。比叡山を去り、吉水の草庵に移る。浄土宗の成立とされる。
  • 1175年(安元1年)8月24日:賀茂神社禰宜祐季、延暦寺僧徒と争う。(資料C1)
  • 1176年(安元2年)4月27日:後白河法皇延暦寺で明雲より受戒。(資料C1)
  • 1176年(安元2年)11月26日:平清盛熊野参詣。(資料C1)
  • 1177年(治承1年)4月13日:延暦寺と白山比咩神社の衆徒が強訴し、加賀国司藤原師高を配流させる。(資料C1)
  • 1177年(治承1年)5月21日:前天台座主明雲を伊豆に配流。23日、延暦寺僧徒、明雲を粟津で奪還。(資料C1)
  • 1178年(治承2年)4月8日:延暦寺僧徒、鞍馬寺風早を追う。(資料C1)
  • 1178年(治承2年)7月:栄西、『筑前誓願寺盂蘭盆縁起』記す。(資料B1)
  • 1178年(治承2年)9月:延暦寺で堂衆と学徒の争いが激化する。(資料B1)
  • 1178年(治承2年)9月:後白河法皇、平清盛に延暦寺学徒の支援を命じる。(資料B1)
  • 1178年(治承2年)10月4日:法皇、平清盛に命じて、延暦寺堂衆を討たせる。(資料C1)
  • 1179年(治承3年)5月14日:感神院の僧徒、清水寺僧徒と合戦。八坂の塔焼失。(資料C1)
  • 1179年(治承3年)10月3日:平教盛、延暦寺堂衆を討つ。(資料C1)
  • 1180年(治承4年)3月17日:園城寺・延暦寺の僧徒が法皇・上皇を奉じて京都を離れるとの流言が広がる。(資料C1)
  • 1180年(治承4年)4月9日:以仁王、源頼政に奉じられ、平氏追討の宣旨を出す。(資料C1)
  • 1180年(治承4年)5月15日:源氏に擁立された以仁王は、源頼政とともに平氏に追われて源氏の氏寺であった園城寺に避難。これに朝廷は処分を下し、荘園の没収などを課している。(資料D資料C1)
  • 1180年(治承4年)5月26日:以仁王、山城国相楽郡の光明山寺の門前で戦死(以仁王墓高倉神社)。園城寺僧の浄妙坊が最期まで護衛したという(浄妙塚)。
  • 1180年(治承4年)6月20日:園城寺荘園を没収。長吏円恵法親王の四天王寺検校兼任を停止。(資料C1)
  • 1180年(治承4年)6月2日:福原京遷都。11月26日:に京都に戻る。(資料C1)
  • 1180年(治承4年)8月17日:源頼朝、挙兵。(資料C1)
  • 1180年(治承4年)9月7日:源義仲、挙兵。(資料C1)
  • 1180年(治承4年)11月26日:安徳天皇福原京から京都に還幸。(資料C1)
  • 1180年(治承4年)11月28日:平重衡、南都焼討。(資料C1)
  • 1180年(治承4年)12月:朝廷、平宗盛を派遣し、源氏に付いた延暦寺や園城寺を焼き討ち。(資料W01)
  • 1180年(治承4年):源頼朝、日光満願寺(現・日光・輪王寺)に下野の地を寄進。(資料C1)
  • 1181年(養和1年)1月4日:熊野僧徒、伊勢神宮を襲撃。志摩の伊雑宮を破壊。伊勢神宮の門前町である宇治郷と山田郷に放火。(『吾妻鏡』資料K)
  • 1181年(養和1年)2月21日:源頼朝、鶴岡八幡宮に戦勝祈願。(資料C1)
  • 1181年(養和1年)8月:親鸞、出家。(資料B1)
  • 1181年(養和1年)9月6日:熊野別当湛増、源頼朝の支援を決める。(資料C1)
  • 1182年(寿永1年)4月26日:文覚鎌倉で源頼朝と接見。(資料C1)
  • 1182年(寿永1年)9月26日:源頼朝、園城寺の円暁を招いて鶴岡八幡宮寺別当とした。以来、園城寺から招くことが続く。(資料D)(資料C1)
  • 1183年(寿永2年)7月25日:平家、安徳天皇を奉じて、京都を脱出。(資料K)
  • 1183年(寿永2年)7月28日:源義仲、入京。(資料C1)
  • 1183年(寿永2年)7月8日:平宗盛、日吉大社を平氏の氏神としようとするが、延暦寺僧徒がこれを拒否。(『吉記』資料K)
  • 1183年(寿永2年)11月28日:後白河法皇、御所を襲撃した源義仲の官職を解く。(資料C1)
  • 1184年(元暦1年)1月10日:源義仲、征夷大将軍となる。20日:死去。(資料C1)
  • 1184年(元暦1年)2月:法然、平重衡に授戒。(資料B1)
  • 1184年(元暦1年)11月:源頼朝勝長寿院造営開始。(資料B1)
  • 1184年(元暦1年)12月:源頼朝、園城寺に近江国横山荘・若狭国玉置荘を寄進。(資料W01)
  • 1185年(文治1年)3月24日:壇ノ浦の戦いで平家滅亡。安徳天皇入水。鎌倉時代の始まり。(『玉葉』資料K)
  • 1185年(文治1年)9月3日:源頼朝、勝長寿院を創建し、源義朝の遺骨を収める。(資料C1)
  • 1185年(文治1年)11月29日:源頼朝の要請で諸国に守護・地頭を設置。(資料C1)
  • 1185年(文治1年)12月28日:九条兼実、内覧となる。(資料C1)
  • 1186年(文治2年):延暦寺に源義経が潜伏。(資料D)
  • 1186年(文治2年):法然、大原勝林院で天台宗僧侶と問答。(資料B1)
  • 1186年:源頼朝、日光山に田地寄進。以後、日光と鎌倉幕府との結びつきが強まる。(日光市ウェブサイト)
  • 1187年(文治3年)3月:栄西、再び入宋。(資料B1)
  • 1187年(文治3年)8月15日:源頼朝、鶴岡八幡宮で初めての放生会。(資料C1)
  • 1189年閏4月30日:源義経、平泉で自害。(中尊寺ウェブサイト)
  • 1189年(文治5年)8月:法然、九条兼実に授戒。(資料B1)
  • 1189年8月22日:源頼朝、奥州藤原氏征討で、平泉に入る。中尊寺などの豪華な伽藍を目の当たりにし、後に鎌倉に再現を志す。9月3日奥州藤原氏滅亡。(資料B1)
  • 1190年(建久1年)2月:法然、東大寺で浄土三部経を講じる。(資料C1)
  • 1190年(建久1年)2月16日:西行死去。(『岩波仏教辞典 第二版』)
  • 1190年(建久1年)7月15日:源頼朝、勝長寿院で平氏の冥福を祈る。(資料C1)
  • 1190年(建久1年)10月:源頼朝、入京。(資料C1)
  • 1190年(建久1年):園城寺公顕、天台座主に就任するが4日で辞任。就任は源頼朝の後押しがあったとみられるという。以後、寺門派から天台座主の任命はなくなる。(資料D)
  • 1191年(建久2年)4月26日:延暦寺僧徒、佐々木荘をめぐって近江守護佐々木氏と争い、日吉大社・八坂神社北野天満宮の神輿を奉じて禁裏に強訴。(資料D、資料C1)
  • 1191年(建久2年)7月:栄西、二度目の入宋から帰国して臨済宗を伝える。(資料B1)
  • 1191年:聖護院静恵、親王となる。親王の聖護院就任の始まり。(『デジタル版 日本人名大辞典+Plus』)
  • 1192年(建久3年)7月12日:源頼朝、征夷大将軍となる。(資料K)
  • 1192年(建久3年)11月:慈円、第62代天台座主。(資料B1)
  • 1194年(建久5年)5月4日:鎌倉幕府、中原季時に寺社の訴訟を担当するように命じる。寺社奉行の初見。(『吾妻鏡』資料K)
  • 1194年(建久5年)7月5日:延暦寺衆徒の訴えで栄西・能忍らの禅の布教を禁止。(資料C1)
  • 1194年(建久5年)8月16日:九条兼実、皇嘉門院のために無動寺に大乗院を創建。(資料C1)
  • 1195年(建久6年)5月20日:源頼朝、四天王寺参詣。(資料C1)
  • 1195年(建久6年):栄西、筑前に聖福寺を創建。(資料C1)
  • 1196年(建久7年)10月28日:延暦寺衆徒、今後四天王寺別当に延暦寺高僧を当てることを要求。(資料C1)
  • 1198年(建久9年):法然3月『選択本願念仏集』。栄西『興禅護国論』。(資料B1)
  • 1199年(正治1年)1月13日:源頼朝、死去。(資料C1)
  • 1200年(正治2年)閏2月:北条政子、栄西を招いて寿福寺を創建。(資料B1)
  • 1200年(正治2年)5月12日:源頼家、専修念仏を禁止。(資料C1)
  • 1201年(建仁1年)3月:親鸞六角堂聖徳太子の夢告を得て法然に師事。(資料B1)
  • 1202年(建仁2年)1月27日:九条兼実、法性寺で出家。(資料C1)
  • 1202年(建仁2年)10月7日:八坂神社、清水寺と境界を争う。(資料C1)
  • 1202年(建仁2年):栄西、真言・天台・禅を兼学する建仁寺を創建。(資料B1)
  • 1202年:実全、天台座主となり、自坊を南叡山妙法院と称し、後白河法皇により京都に移す。(資料E)
  • 1203年(建仁3年)5月27日:上皇、法勝寺で八万四千塔を供養(資料C1)
  • 1203年(建仁3年)9月:延暦寺で内乱。学生が城を築き、堂衆が近江の軍勢を率いて攻撃。山上で合戦。8月や10月にも。(資料D)(資料C1)
  • 1205年(元久2年)10月:興福寺が専修念仏禁止を訴える。同年延暦寺も同様の訴え。(資料B1)
  • 1206年(建永1年)2月:法然の一門が流罪と決まる。建永の法難。(資料B1)
  • 1206年(建永1年)2月14日:興福寺衆と、法然とその門徒を他宗をそしるとして訴える。(資料C1)
  • 1206年(建永1年)2月28日:熊野本宮大社火災。(資料C1)
  • 1207年(承元1年)2月18日:法然、土佐に流される(のち讃岐)。親鸞は越後に。(資料C1)
  • 1207年(承元1年)12月28日:熊野三山検校と臨幸先達を園城寺の支配下に置く。(『踏雲録事』資料K)
  • 1207年(承元1年)12月28日:東大寺と延暦寺の両戒壇の勝劣争いを停止させる。(資料C1)
  • 1208年(承元2年)1月24日:讃岐真野荘、園城寺領となる。(資料C1)
  • 1208年(承元2年)2月3日:金峰山寺衆徒、多武峰寺を襲う。(資料C1)
  • 1208年(承元2年)10月10日:北条政子、熊野参詣。(資料C1)
  • 1209年(承元3年)6月:法然、一念義を停止。(資料B1)
  • 1210年:鎌倉幕府と近い弁覚、日光山座主就任。日光山を中興。日光に熊野修験を導入したという。(日光市ウェブサイト)
  • 1211年(建暦1年)3月:延暦寺僧徒、園城寺を焼こうとする。(資料C1)
  • 1211年(建暦1年)7月11日:延暦寺総持院焼失。(資料C1)
  • 1211年(建暦1年)11月:法然、入京許可。(資料B1)
  • 1211年(建暦1年)12月:源実朝、栄西に祈祷させる。(資料B1)
  • 1211年(建暦1年):俊ジョウ、入宋より帰国。律宗、天台宗、真言宗、禅宗、浄土教兼学の寺院として泉涌寺創建。
  • 1211年(建暦1年):2代将軍源頼家の三男公暁、出家して園城寺に入る。(『朝日日本歴史人物事典』)
  • 1211年(建暦1年):慈円、念仏停止を上申(資料D)
  • 1212年(建暦2年)1月25日:法然死去。『一枚起請文』。(資料B1)
  • 1212年(建暦2年)2月23日:延暦寺僧徒、園城寺を焼こうとする。(資料C1)
  • 1212年(建暦2年)10月:慈円、新青蓮院を創建。(資料C1)
  • 1213年(建保1年)3月19日:源実朝、浄遍・源延を召して法華宗と浄土宗について談義させる。(資料C1)
  • 1213年(建保1年)4月26日:法勝寺九重塔建立。(資料C1)
  • 1213年(建保1年)7月:後鳥羽上皇清水寺と延暦寺の衆徒を攻める。
  • 1213年(建保1年)10月15日:京都大火。六角堂など焼失。(資料C1)
  • 1213年(建保1年)11月16日:興福寺僧徒、延暦寺が清水寺を末寺にしようとしていることについて怒り、春日:神木を奉じて強訴。(資料C1)
  • 1213年(建保1年):道元、14歳で得度。(『別冊太陽 比叡山』年表)
  • 1214年(建保2年)1月:栄西、『喫茶養生記』。(資料B1)
  • 1214年(建保2年)4月15日:延暦寺衆徒、園城寺を襲撃し、金堂などを焼く。東大寺、醍醐寺勧修寺も巻き込んだ争いとなる。(資料D資料C1)
  • 1214年(建保2年)6月29日:四天王寺宝蔵で聖徳太子所持の経典を発見。(資料C1)
  • 1214年(建保2年)9月10日:青蓮院と梨本坊(三千院)、越前平泉寺長吏職を争う。(資料C1)
  • 1215年(建保3年)3月16日:園城寺衆徒、延暦寺領の東坂本を焼く。(資料C1)
  • 1215年(建保3年)7月5日:栄西死去。(資料C1)
  • 1215年(建保3年)12月:京都大火。六角堂など焼失。(資料C1)
  • 1215年(建保3年):将軍源実朝、園城寺を復興(資料W01)
  • 1216年(建保4年):延暦寺法華会、勅会となる。(資料A2)
  • 1217年(建保5年)1月:親鸞、常陸に移る。(資料B1)
  • 1217年(建保5年)6月20日:公暁、鶴岡八幡宮寺別当となる。(資料C1)
  • 1217年(建保5年):道元、建仁寺明全に師事。(資料B1)
  • 1218年(建保6年)2月4日:北条政子、熊野参詣、入京。(資料B1)
  • 1218年(建保6年)9月16日:延暦寺衆徒、博多津を寺領にしようとして石清水八幡宮と抗争。強訴。(資料C1)
  • 1219年(承久1年)1月27日:鶴岡八幡宮別当公暁、将軍源実朝を暗殺。(資料C1)
  • 1220年(承久2年)4月13日:八坂神社火災。(資料C1)
  • 1220年(承久2年):慈円『愚管抄』記す。(資料B1)
  • 1221年(承久3年)5月15日:後鳥羽上皇、北条義時追討の宣旨。承久の乱始まる。7月幕府軍が勝利して後鳥羽上皇と順徳上皇を配流。熊野三山検校長厳、陸奥に配流。10月1日、鶴岡八幡宮別当定豪を熊野三山検校とする。(資料C1、新宮市ウェブサイト)
  • 1221年(承久3年)9月:栄朝、長楽寺創建。(資料B1)
  • 1222年(貞応1年)2月20日:但馬国の政務を延暦寺に付す。(資料C1)
  • 1224年(元仁1年)1月14日:鶴岡八幡宮で最勝八講を初めて実施。翌年とも。(資料C1)
  • 1224年(元仁1年)8月5日:専修念仏禁止。(資料C1)
  • 1224年(元仁1年):親鸞『教行信証』初稿成立。浄土真宗の成立。(資料B1)
  • 1225年(嘉禄1年)1月:園城寺の中院・北院、南院と争う。(資料C1)
  • 1225年(嘉禄1年)1月10日:金峰山寺蔵王堂焼失。(資料C1)
  • 1225年(嘉禄1年)3月:延暦寺の訴えで空阿弥陀仏を追却。(資料C1)
  • 1225年(嘉禄1年)5月:金峰山寺衆徒、高野山を襲い、焼こうとする。(資料C1)
  • 1225年(嘉禄1年)9月25日:慈円死去。(資料C1)
  • 1226年(嘉禄2年)8月4日:金峰山寺僧徒、蔵王堂焼失を高野山僧徒の所為として入京し強訴。(資料C1)
  • 1226年(嘉禄2年)11月8日:平泉毛越寺焼失。(資料C1)
  • 1226年(嘉禄2年):東塔と横川が所領の境界を巡って争う。(資料D)
  • 1227年(安貞1年)閏3月:俊ジョウ死去。(資料B1)
  • 1227年(安貞1年)6月22日:延暦寺衆徒、法然の墓を破壊。嘉禄の法難。(資料C1)
  • 1227年(安貞1年)7月6日:延暦寺の訴えで、隆寛や空阿弥陀仏を配流。専修念仏を停止させる。(資料C1)
  • 1227年(安貞1年)8月8日:多武峰寺僧徒、興福寺僧徒と争う。(資料C1)
  • 1227年(安貞1年):道元、宋より帰国。曹洞宗を伝来。(『岩波仏教辞典 第二版』)
  • 1227年(安貞1年):武蔵で最古の板碑が造られる。(資料B1)
  • 1228年(安貞2年)2月:浄業が帰国。(資料B1)
  • 1228年(安貞2年)6月4日:延暦寺政所、末寺進美寺の国使不入を求める。(資料C1)
  • 1229年(寛喜1年)3月25日:延暦寺文殊楼焼失。(資料C1)
  • 1229年(寛喜1年)12月22日:蓮華蔵院焼失。(資料C1)
  • 1229年(寛喜1年):門跡の間で争い。(資料D)
  • 1230年(寛喜2年)5月2日:住吉大社と四天王寺が境界を争う。(資料C1)
  • 1230年(寛喜2年)12月25日:勝長寿院で源実朝13回忌。三重塔建立。(資料C1)
  • 1230年(寛喜2年):道元、建仁寺を出て安養院に移る。(資料B1)
  • 1232年(貞永1年)8月10日:北条泰時、御成敗式目を定める。(資料K)
  • 1232年:円融坊(三千院)の坂本里坊、焼失(三千院ウェブサイト)
  • 1233年(天福1年)1月:法然の遺骨を二尊院に納める。(資料B1)
  • 1233年(天福1年)2月20日:無動寺と南谷の内乱を停止。(資料C1)
  • 1233年(天福1年)3月:下河辺行秀、熊野那智から補陀落渡海。(資料B1)
  • 1233年(天福1年)7月:道元『普勧坐禅儀』。同年、興聖寺創建。(資料B1)
  • 1233年(天福1年):門跡の間で争い。(資料D)
  • 1234年(文暦1年)2月14日:北野天満宮・朝日寺火災。(資料C1)
  • 1234年(文暦1年)6月:幕府、専修念仏を禁止。(資料B1)
  • 1235年(嘉禎1年)6月29日:白山僧徒、神輿を奉じて入京をはかる(資料C1)
  • 1235年(嘉禎1年)7月:幕府、念仏宗と称して黒衣僧侶の往来を禁止。(資料B1)
  • 1235年(嘉禎1年)7月23日:延暦寺僧徒、佐々木氏を訴える。(資料C1)
  • 1236年(嘉禎2年)4月:道元、興聖寺に僧堂を建てる。(資料B1)
  • 1236年(嘉禎2年):叡尊ら東大寺戒壇院で自誓受戒。中世の戒律復興運動の始まり。(資料C1)
  • 1237年(嘉禎3年)春:道元『典座教訓』。(資料B1)
  • 1237年(嘉禎3年)3月8日:慈円に慈鎮の諡号。(資料C1)
  • 1237年(嘉禎3年)10月16日:善光寺五重塔建立。(資料C1)
  • 1237年(嘉禎3年):日蓮出家。(資料B1)
  • 1238年(暦仁1年)6月:栄尊、帰国。佐賀に万寿寺創建。(資料B1)
  • 1238年(暦仁1年):北条泰時、北条政子追善のため園城寺唐院に一切経奉納。(資料D)
  • 1239年(延応1年)7月27日:仁和寺法助、准三宮となる。僧侶の准后の始まり。(資料C1)
  • 1239年(延応1年):園城寺勧学院、創建。(資料W01)
  • 1240年(仁治1年)3月:良忠、鎌倉・光明寺。(資料B1)
  • 1240年:弁覚、日光山に本坊光明院創建。(資料B1)
  • 1240年(仁治1年)5月14日:延暦寺、専修念仏禁止を訴える。(資料C1)
  • 1240年(仁治1年)5月20日:延暦寺僧徒が地頭代になることを禁止。(資料C1)
  • 1242年(仁治3年):日蓮、比叡山に入る。(『別冊太陽 比叡山』年表)
  • 1243年(寛元1年)4月3日:円満院に阿闍梨3口を設置(資料C1)
  • 1243年(寛元1年)8月:九条道家、東福寺を創建し、弁円を住させる。(資料B1)
  • 1243年:覚瑜、廬山寺を船岡山に移転。(資料E)
  • 1244年(寛元2年)7月:道元、永平寺創建。(資料B1)
  • 1244年(寛元2年)8月24日:伊勢阿曽山と熊野山盗賊が蜂起(資料C1)
  • 1245年(寛元3年)ごろ:叡尊、奈良法華寺を復興。以後、律寺となる。(資料A1)
  • 1246年(寛元4年)11月15日:覚仁法親王、熊野三山検校となる。(資料C1)
  • 1246年(寛元4年)3月14日:信濃善光寺再建?(資料C1)
  • 1246年(寛元4年)4月5日:青蓮院門跡、梨本門跡と争う(資料C1)
  • 1248年(宝治2年):一遍出家。(資料B1)
  • 1249年(建長1年)8月14日:青蓮院門跡の僧徒、仁助法親王を四天王寺別当に任じるように要求。(資料C1)
  • 1249年:梶井円徳院(三千院の前身の一つ)再建。(三千院ウェブサイト)
  • 1250年(建長2年)2月23日:鶴岡八幡宮別当隆弁、園城寺再興を請願(資料C1)
  • 1250年(建長2年)3月5日:幕府、六波羅探題に命じて延暦寺僧徒の寄沙汰を禁止させる。(資料C1)
  • 1250年(建長2年)5月3日:円順、『往生要集』を禁中で講義。(資料C1)
  • 1253年(建長5年)8月28日:道元死去。(資料C1)
  • 1253年:勝長寿院別当尊家、日光山座主となる。以後、日光山座主は勝長寿院の兼職となり鎌倉に住す(日光市ウェブサイト)
  • 1253年(建長5年):日蓮、安房清澄寺で法華題目を唱える。鎌倉布教。日蓮宗の成立。(『岩波仏教辞典 第二版』)
  • 1254年(建長6年)1月:蓮華王院三十三間堂の観音像ができる。(資料B1)
  • 1256年(康元1年)4月27日:実相院門跡再興。(資料C1)
  • 1257年(正嘉1年)3月:園城寺衆徒、戒壇設置が認められず強訴。(資料B1)
  • 1258年(正嘉2年)4月17日:延暦寺僧徒、園城寺戒壇問題について訴える。(資料C1)
  • 1258年(正嘉2年)5月:延暦寺衆徒、園城寺戒壇認可に抗議して強訴。認可撤回。(資料B1)
  • 1258年(正嘉2年)6月4日:勝長寿院再建?(資料C1)
  • 1259年(正元1年)5月26日:延暦寺三塔の僧徒、元三大師画像を1万部刷る。(資料C1)
  • 1260年(文応1年)1月4日:朝廷、園城寺に三摩耶戒壇設置を認める。幕府の後押しがあったという。延暦寺衆徒強訴して19日:に撤回。(資料D)
  • 1260年(文応1年)7月:日蓮、『立正安国論』。(資料B1)
  • 1260年(文応1年)8月:日蓮、松葉ケ谷の法難。(資料B1)
  • 1261年(弘長1年)5月12日:鎌倉幕府、日蓮を伊東に配流。(『日蓮聖人註画讃』資料K)
  • 1261年(弘長1年)10月19日:園城寺、戒壇設置を鎌倉幕府に訴える。(資料C1)
  • 1262年(弘長2年)11月:親鸞死去。(資料B1)
  • 1263年(弘長3年)2月17日:北条時頼、信濃国深田郷を善光寺に寄進。(資料C1)
  • 1263年(弘長3年)7月4日:六角堂再建?(資料C1)
  • 1263年(弘長3年):西塔と横川が堅田検断職を巡って争論。(資料D)
  • 1264年(文永1年)1月2日:四天王寺僧徒と園城寺が四天王寺別当職をめぐり抗争。(資料C1)
  • 1264年(文永1年)3月:延暦寺衆徒、蜂起して自ら延暦寺の伽藍を焼く。園城寺戒壇問題で強訴。(資料B1)
  • 1264年(文永1年)3月29日:園城寺、延暦寺戒壇院焼失を受けて三摩耶戒授戒を実施。(資料C1)
  • 1264年(文永1年)4月6日:延暦寺僧徒の要求で、室町実藤を淡路に配流。(資料C1)
  • 1264年(文永1年)5月2日:延暦寺僧徒、園城寺を焼き討ち。「弁慶の引き摺り鐘」を略奪し延暦寺に移す。(資料C1、資料W01)
  • 1264年(文永1年)5月24日:院宣で四天王寺別当を園城寺に与える。(資料C1)
  • 1264年(文永1年)11月8日:延暦寺戒壇院、再建。(資料C1)
  • 1265年(文永2年)4月:鎌倉幕府、延暦寺衆徒の武装を禁止。(資料B1)
  • 1266年(文永3年)4月27日:蓮華王院再建(資料C1)
  • 1266年(文永3年)8月18日:大風雨で延暦寺、文殊楼や戒壇院が倒壊。(資料C1)
  • 1267年(文永4年)6月21日:延暦寺僧徒、蜂起。(資料C1)
  • 1268年(文永5年)1月:凝念、『八宗綱要』。(資料B1)
  • 1268年(文永5年)3月:善光寺焼失。(資料B1)
  • 1268年(文永5年)10月11日:日蓮、他宗を排撃。(資料C1)
  • 1268年(文永5年)12月8日:梶井門跡と青蓮院門跡争う。(資料C1)
  • 1268年(文永5年)12月25日:尊助法親王の天台座主を廃して慈禅を任じる。(資料C1)
  • 1268年(文永5年)聖護院覚助、園城寺長吏となる。(資料C1)
  • 1268年(文永5年):門跡の間で争い。(資料D)
  • 1269年(文永6年)1月10日:延暦寺、日吉大社神輿を奉じて強訴。(資料C1)
  • 1269年(文永6年)2月17日:道玄を梶井、青蓮院門跡に復す?(資料C1)
  • 1271年(文永8年)7月12日:龍口の法難(資料C1)
  • 1271年(文永8年)9月:日蓮佐渡配流(資料C1)
  • 1271年(文永8年)9月:幕府、日蓮を佐渡配流。(資料B1)
  • 1271年(文永8年)10月19日:信濃善光寺再建?(資料C1)
  • 1271年(文永8年)11月:後嵯峨法皇、天台座主に異国降伏の祈祷を命じる。(資料B1)
  • 1271年(文永8年):<中国>元、興る。(『岩波仏教辞典 第二版』)
  • 1272年(文永9年)4月4日:蓮華王院千僧供養(資料C1)
  • 1272年(文永9年)12月:覚信尼、親鸞廟堂を建てる。本願寺の起源。(資料B1)
  • 1274年(文永11年)3月2日:園城寺長吏円助法親王、二品に叙位。延暦寺僧徒、抗議。(資料C1)
  • 1274年(文永11年)5月:日蓮、久遠寺を創建。(資料B1)
  • 1274年(文永11年)5月12日:久遠寺創建(資料C1)
  • 1274年(文永11年)夏:一遍、熊野に参籠。熊野権現から神託を受ける。時宗の成立。(資料B1)
  • 1274年(文永11年)10月5日:文永の役。(資料K)
  • 1274年(文永11年)11月1日:文永の役。(資料C1)
  • 1275年(建治1年)4月23日:長講堂再建?(資料C1)
  • 1275年(建治1年)4月27日:延暦寺僧徒、龍象の住房を焼く。(資料C1)
  • 1277年(建治3年)4月4日:北条義政出家して善光寺参詣。(資料C1)
  • 1277年(建治3年)11月:延暦寺僧徒、梨本門跡僧徒と争う。(資料C1)
  • 1278年(弘安1年)1月14日:天台座主道玄の大僧正を罷免。東寺長者がこれに代わる。(資料C1)
  • 1278年(弘安1年)5月12日:園城寺、金堂再建供養。勅会に准ずる。延暦寺僧徒、入京してこれを妨害。(資料C1)
  • 1278年(弘安1年)6月:北野天神縁起(資料C1)
  • 1279年(弘安2年)5月4日:石清水八幡宮神人、赤山禅院神人?との訴訟のため、神輿を奉じて入京。(資料C1)
  • 1279年(弘安2年):一遍、踊り念仏を始める。(資料B1)
  • 1280年(弘安3年)6月24日:延暦寺僧徒、園城寺北院を焼く。(資料C1)
  • 1280年(弘安3年)10月17日:弁円死去。(資料C1)
  • 1281年(弘安4年)10月18日:金峰山寺の神輿が入洛。(資料C1)
  • 1281年(弘安4年)2月:熊野行幸、異国降伏を祈る。(資料B1)
  • 1281年(弘安4年)7月1日:弘安の役(資料C1)
  • 1281年(弘安4年)閏7月1日:弘安の役。元・高麗軍、暴風雨で沈没。(資料K)
  • 1282年(弘安5年)10月:日蓮死去。(資料B1)
  • 1283年(弘安6年)1月6日:延暦寺僧徒、日吉大社・八坂神社の神輿を奉じて禁中に乱入。(資料C1)
  • 1283年(弘安6年)2月2日:日吉大社神輿入京(資料C1)
  • 1283年(弘安6年):この頃、一遍が全国を遊行。(資料B1)
  • 1284年(弘安7年)5月20日:幕府、寺社領以下三十八ケ条制定。(資料C1)
  • 1284年(弘安7年)8月28日:興福寺、多武峰寺を襲撃。(資料C1)
  • 1284年(弘安7年)9月:叡尊、四天王寺別当となる(資料C1)
  • 1285年(弘安8年)5月:一遍、北陸地方を巡教。(資料B1)
  • 1285年(弘安8年):高野山伝法院僧徒、根来寺に移住。新義真言宗の確立。(資料C1)
  • 1287年(弘安10年)10月:一向死去。(資料B1)
  • 文永~弘安ごろ:恵尋、黒谷流円頓戒を復興。(資料J)
  • 1288年(正応1年)1月22日:『山王霊験記』(資料C1)
  • 1288年(正応1年)4月26日:京都大火。行願寺、誓願寺など焼失。(資料C1)
  • 1288年(正応1年)12月:一遍、大山祇神社参詣。(資料B1)
  • 1288年(正応1年):近江金剛輪寺再建(資料C1)
  • 1289年(正応2年)4月28日:疫病流行で七大寺や延暦寺で大般若経転読。(資料C1)
  • 1289年(正応2年)8月:一遍死去。(資料B1)
  • 1292年(正応5年)4月2日:日吉大社神輿動座。(資料C1)
  • 1294年(永仁2年)2月3日:鶴岡八幡宮焼失。(資料C1)
  • 1294年(永仁2年):忍性、四天王寺別当となり、悲田院・敬田院を興す。(資料C1)
  • 1295年(永仁3年)11月:勝長寿院焼失。(資料B1)
  • 1297年(永仁5年)5月19日:多武峰寺の神宝入洛(資料C1)
  • 1298年(永仁6年)4月21日:那智山火災。(資料C1)
  • 1298年(永仁6年)9月:延暦寺、戒壇講堂など焼失。(資料B1)
  • 1299年(正安1年)4月25日:延暦寺僧徒、妙法院門跡僧徒と争う。(資料C1)
  • 1300年(正安2年)3月:浅草寺再建。(資料B1)
  • 1301年(正安3年)2月:武蔵仏地院(中院)、関東天台宗の本山となる。(資料B1)
  • 1301年(正安3年)7月29日:摂津榎並荘、曼殊院門跡領となる。(資料C1)
  • 1302年(乾元1年)2月10日:延暦寺僧徒が本願寺敷地に乱妨することを禁止。(資料C1)
  • 1302年(乾元1年)8月:四天王寺鳥居建立(資料C1)
  • 1302年(乾元1年):一向宗を禁止(資料C1)
  • 1303年(嘉元1年)2月1日:道玄、最勝光院法華堂別当となる。(資料C1)
  • 1303年(嘉元1年)11月:延暦寺霜月会に勅使。以後恒例。(資料C1)
  • 1306年(徳治1年)5月18日:粉河寺、祈願所となる。(資料C1)
  • 1308年(延慶1年)10月24日:延暦寺僧徒の要求で、益信の大師号を停止。(資料C1)
  • 1309年(延慶2年)1月:宇佐神宮弥勒寺焼失。(資料B1)
  • 1309年(延慶2年)7月20日:益信の大師号を復旧(資料C1)
  • 1309年(延慶2年)12月5日:延暦寺僧徒、強訴して益信の大師号の停止を求める。(資料C1)
  • 1310年(延慶3年)11月:東寺、延暦寺の訴えにより益信の大師号を辞退。日吉大社神輿が還御。(資料C1、資料B1)
  • 1311年(応長1年)6月28日:興福寺僧徒、多武峰寺と合戦。(資料C1)
  • 1311年(応長1年)12月26日:円爾弁円に聖一国師号。国師号の始まり。(資料C1)
  • 1312年(正和1年)6月:興福寺僧徒、多武峰寺と合戦。(資料C1)
  • 1312年(正和1年)10月3日:延暦寺横川中堂焼ける。(資料C1)
  • 1313年(正和2年)3月22日:善光寺火災。(資料C1)
  • 1313年(正和2年)8月:鶴岡八幡宮神宮寺を創建。(資料C1)
  • 1313年(正和2年):園城寺勧学院再建?(資料C1)
  • 1314年(正和3年)2月:京都・尊勝寺京都・最勝寺焼失。(資料B1)
  • 1314年(正和3年)5月1日:新日吉神社神人など、六波羅探題北方の武士と戦闘。(資料C1)
  • 1314年(正和3年)6月:幕府の要請で天台座主公什罷免。(資料B1)
  • 1315年:この頃、仁澄法親王が日光山座主となる。日光で初の皇族座主。(日光市ウェブサイト)
  • 1318年(文保2年):後醍醐天皇即位。(資料B1)
  • 1319年(元応1年)3月:園城寺戒壇問題で延暦寺僧徒蜂起。(資料C1)
  • 1319年(元応1年)4月13日:延暦寺僧徒蜂起。園城寺と大津在家を焼く。(資料C1、資料B1)
  • 1319年(元応1年):後醍醐天皇、円観らが建てた京都岡崎の律院に「元応寺」の名を与える。のち元応寺流円頓戒の拠点。(『天台真盛宗宗学汎論』)
  • 1320年(元応2年)9月10日:延暦寺の要求で、吉田隆長を阿波に配流。(資料C1)

中世2:比叡山、後醍醐天皇に加勢 幕府は園城寺を支援

  • 1321年(元亨1年)11月:法明融通念仏宗を復興。(資料B1)
  • 1321年(元亨1年):後醍醐天皇、親政開始。(『日本大百科全書』)
  • 1322年(元亨2年)3月20日:多武峰寺、藤原鎌足像破裂。(資料C1)
  • 1324年(正中1年):正中の変。(『日本大百科全書』)
  • 1325年(正中2年):呑海清浄光寺創建。(資料C1)
  • 1326年(嘉暦1年)9月4日:勝長寿院造営料船、元より帰国。(資料C1)
  • 1326年(嘉暦1年):円観後宇多天皇の追善のため、後醍醐天皇の勅許を得て、西教寺を再興。(資料D)
  • 1327年(嘉暦2年)12月6日:梶井門跡尊雲法親王(護良親王)、天台座主。(資料C1)
  • 1327年(嘉暦2年):円観、法勝寺を復興。法勝寺流円頓戒が成立。西教寺は法勝寺末となる。(資料D)
  • 1329年(元徳1年)4月23日:日吉大社、塔建立。(資料C1)
  • 1330年(元徳2年)3月:天皇、日吉大社・延暦寺に行幸。(資料B1)
  • 1330年(元徳2年)6月22日:延暦寺僧徒、一向宗禁止を乞う。(資料C1)
  • 1330年(元徳2年)12月:妙法院門跡尊澄法親王(宗良親王)、天台座主。(資料B1)
  • 1331年(元弘1年/元徳3年)8月:元弘の変。後醍醐天皇、東大寺笠置寺に籠り、幕府軍と交戦するが拘束される。(資料B1)
  • 1331年(元弘1年/元徳3年):梶井門跡、船岡山の東麓に本坊を建設(三千院ウェブサイト)
  • 1332年(元弘2年/正慶1年)3月7日:鎌倉幕府、後醍醐天皇を隠岐配流。翌日、天皇皇子の尊良親王を土佐に、天台座主尊澄法親王(宗良親王)を讃岐に、聖護院静尊法親王を但馬に配流。また聖尋を下総に、俊雅を長門に配流。(資料C1)
  • 1332年(元弘2年/正慶1年)6月1日:尊雲法親王、令旨を熊野に下す。同年、法親王、還俗して護良親王と称し、吉野で挙兵。(資料C1)
  • 1332年(元弘2年/正慶1年)8月19日:後醍醐天皇、宸筆願文を鰐淵寺に奉納。(資料C1)
  • 1333年(元弘3年/正慶2年)閏2月:後醍醐天皇、隠岐脱出。(資料B1)
  • 1333年(元弘3年/正慶2年)5月22日:北条高時自殺。鎌倉幕府滅亡。(資料C1)
  • 1333年(元弘3年/正慶2年)6月:後醍醐天皇、入京。(資料B1)
  • 1333年(元弘3年/正慶2年):法成寺、廃絶。(『日本大百科全書』)
  • 1334年(建武1年):建武の新政。(資料B1)
  • 1335年(建武2年):足利尊氏が謀反。後醍醐天皇、比叡山に行幸。(資料B1)
  • 1336年(延元1年/建武3年)1月7日:平等院、兵火被害。(資料C1)
  • 1336年(延元1年/建武3年)6月5日:足利直義、延暦寺を攻撃。千種忠顕敗死。(資料C1)
  • 1336年(延元1年/建武3年)9月3日:光厳上皇実相院増覚に大雲寺の寺領を安堵?(資料C1)
  • 1336年(延元1年/建武3年)11月7日:足利尊氏、室町幕府を開く。建武式目を定める。(資料C1)
  • 1336年(延元1年/建武3年)12月21日:後醍醐天皇、吉野に潜幸。(資料C1)
  • 1336年(延元1年/建武3年):園城寺、戒壇設置の約束を取り付け足利尊氏に援軍するが、攻撃を受けて伽藍炎上。(資料D)
  • 1336年(延元1年/建武3年):足利尊氏、乗々院を熊野三山奉行に任命。(新宮市ウェブサイト)
  • 1337年(延元2年/建武4年)4月26日:足利尊氏、後醍醐天皇に与した延暦寺を滅亡させようとするが、玄慧が止める。(資料C1)
  • 1337年(延元2年/建武4年):野火で中尊寺火災。金色堂と経蔵以外の大半が焼ける。(資料E)
  • 1338年(延元3年/暦応1年)10月20日:最勝寺青蓮院門跡の支配とする(資料C1)
  • 1339年(延元4年/暦応2年)6月1日:足利直義、一国一基の塔を建てて勅願とすることを奏請。のちの安国寺。(資料C1)
  • 1339年(延元4年/暦応2年)8月16日:後醍醐天皇、吉野で崩御。(資料C1)
  • 1342年:法勝寺火災。以後衰退。(資料J)
  • 1344年(興国5年/康永3年)6月8日:多武峰鳴動(資料C1)
  • 1345年(興国6年/貞和1年)8月14日:天龍寺創建にあたり、光厳上皇行幸が図れるが、延暦寺衆徒の強訴で断念。(資料B1)
  • 1347年(正平2年/貞和3年)5月11日:熊野三山で所領をめぐる争論(資料C1)
  • 1347年(正平2年/貞和3年)1月:将軍足利尊氏、室町幕府創設を支援した園城寺を復興。金堂・新羅善神堂(現在の社殿)を再建。(資料W01)
  • 1352年(正平7年/文和1年)2月:延暦寺衆徒、祇園社神人に命じて日蓮宗浄土真宗を弾圧(資料B1)。2日には仏光寺を、25日には妙顕寺を破壊(資料C1)。
  • 1352年(正平7年/文和1年)2月17日:延暦寺飯室谷浄戒院が火災。(資料C1)
  • 1352年(正平7年/文和1年)10月6日:足利義詮、園城寺に石見、安芸、越前、近江の地頭職を寄進。(資料C1)
  • 1352年(正平7年/文和1年)11月:青蓮院尊円法親王『入木抄』を著し、後光厳天皇に献上。(資料C1)
  • 1353年(正平8年/文和2年)3月2日:足利義詮、八坂神社、神護寺西大寺に天平静謐を祈願。(資料C1)
  • 1354年(正平9年/文和3年):多武峰寺聖霊院(談山神社)倒壊。(資料C1)
  • 1355年(正平10年/文和4年)5月:金勝寺、南朝軍に備える。(資料C1)
  • 1356年(正平11年/延文1年)1月5日:北朝、尊円法親王を四天王寺別当とする(資料C1)
  • 1356年(正平11年/延文1年)8月28日:尊円法親王、青蓮院門跡を尊道親王に譲る(資料C1)
  • 1356年(正平11年/延文1年)3月1日:円観死去。(資料C1)
  • 1358年(正平13年/延文3年)4月30日:足利尊氏死去。(資料C1)
  • 1361年(正平16年/康安1年)6月21日:四天王寺金堂倒壊(資料C1)
  • 1368年(正平23年/応安1年):<中国>明、興る。(資料A1)
  • 1368年(正平23年/応安1年)8月:延暦寺衆徒、臨済宗祖禅の『続正法論』に抗議して強訴。日吉大社神輿を奉じて入京。祖禅は配流となる。(資料B1、資料C1)
  • 1368年(正平23年/応安1年)10月10日:延暦寺西塔火災(資料C1)
  • 1369年(正平24年/応安2年)7月28日:延暦寺強訴して南禅寺の楼門の撤去を求め、幕府これを認める。8月7日、京都の禅寺の長老らが一斉に引退。(資料K資料C1)
  • 1370年(建徳1年/応安3年)4月4日:善光寺火災(資料C1)
  • 1370年(建徳1年/応安3年)12月:幕府、延暦寺公人の悪行を禁じる。(資料B1)
  • 1374年(文中3年/応安7年)6月20日:日吉大社・八坂神社・北野天満宮などの神人、強訴。(資料C1)
  • 1377年(天授3年/永和3年)7月28日:延暦寺の月輪院金輪院が戦闘(資料C1)
  • 1377年(天授3年/永和3年)8月:延暦寺僧永覚、英澄を攻め、城を落とす。(資料B1)
  • 1378年(天授4年/永和4年)7月28日:延暦寺僧徒争う。(資料C1)
  • 1379年(天授5年/康暦1年)閏4月:幕府、延暦寺に山内を統制する機関として山門使節を設置。()
  • 1379年(天授5年/康暦1年)11月1日:鞍馬寺僧徒、賀茂神社神人と争う。(資料C1)
  • 1380年(天授6年/康暦2年):日吉祭、朝使参行が中絶。(資料K)
  • 1387年(元中4年/嘉慶1年):延暦寺衆徒、日蓮宗妙顕寺を破壊する。(資料B1)
  • 1392年(元中9年/明徳3年):<朝鮮>李氏朝鮮成立。(資料A1)
  • 1392年(元中9年/明徳3年)9月:延暦寺大供養。(資料C1)
  • 1392年(元中9年/明徳3年)10月2日:南北朝合一。(資料C1)
  • このころ、園城寺僧道了、勧学院で修行中に突如として天狗となり、相模国小田原に飛び、最乗寺創建を助けたという。(資料W01)
  • 1396年(応永3年)4月:足利義満、延暦寺大講堂落慶法要に臨席し、戒壇院で受戒。(資料B1)
  • 1396年(応永3年)9月5日:満済、延暦寺戒壇院で受戒。(資料C1)
  • 1397年:足利義満、金閣を創建。その建設のため、曼殊院門跡は禁裏周辺に移転。(資料E)
  • 1400年(応永7年)8月23日:鶴岡八幡宮に供僧16口を置く(資料C1)
  • 1402年(応永9年)10月9日:天台座主尊道親王、鰐淵寺の規式を制定。(資料C1)
  • 1403年(応永10年)6月:足利義満の弟の義円が青蓮院に入寺。(資料B1)
  • 1403年(応永10年)5月6日:足利義満、長谷寺参詣し、ついで多武峰寺に至る。(資料C1)
  • 1403年(応永10年)9月21日:多武峰寺僧徒、宇陀郡に入り、興福寺僧徒・国民と戦う。(資料C1)
  • 1408年(応永15年)7月2日:熊野本宮大社火災。(資料C1)
  • 1411年(応永18年)8月24日:延暦寺末寺の穴太寺の寺領を安堵(資料C1)
  • 1411年(応永18年)10月9日:足利義持、園城寺に建武以来の寺領を安堵。(資料C1)
  • 1413年(応永20年)6月:延暦寺衆徒、日蓮宗妙本寺具覚の僧正補任に抗議して強訴。犬神人に堂宇を破壊させる(資料B1)
  • 1413年(応永20年)9月:善光寺金堂再建。(資料C1)
  • 1415年(応永22年)6月13日:延暦寺僧徒、近江国守護六角満高の罷免を求め日吉大社神輿を奉じて強訴。(資料C1、資料B1)
  • 1416年(応永23年):大津今颪在地の検断権をめぐり、園城寺で内紛。北院・中院と南院が対立し、一触即発となったが、幕府の介入で衝突回避。(資料D)
  • 1416年(応永23年)10月:上杉禅秀の乱(資料C1)
  • 1417年(応永24年)3月3日:上杉憲基、園城寺で敵味方の冥福を祈る。(資料C1)
  • 1418年(応永25年)6月:大津の馬借ら、八坂神社の神輿を奉じて、米売買について強訴。(資料B1)
  • 1419年(応永26年)10月:足利義持、山門規式を定める。(資料B1)
  • 1420年(応永27年)4月22日:日吉祭、朝使参行復興(『康富記』資料K)
  • 1420年(応永27年)12月13日:鶴岡八幡宮等覚院を勅願所とする(資料C1)
  • 1425年(応永32年)9月24日:崇福寺火災。(資料C1)
  • 1426年(応永33年)6月:坂本の馬借ら、京都に乱入して、北野天満宮の放火を企てる。(資料B1)
  • 1426年(応永33年)1月:六角堂火災。(資料C1)
  • 1427年(応永34年)3月29日:善光寺火災。(資料C1)
  • 1427年(応永34年)6月27日:延暦寺僧徒の訴えで高倉永藤を流罪(資料C1)
  • 1428年(正長1年)3月:青蓮院義円、還俗して第6代将軍足利義教となる。(資料B1)
  • 1428年(正長1年)9月8日:日吉大社神人、強訴。(資料C1)
  • 1429年(永享1年)1月23日:幕府、興福寺と多武峰寺に命じて沢秋山を討たせる。(資料C1)
  • 1429年(永享1年)5月30日:醍醐寺理性院と妙法院門跡、争う(資料C1)
  • 1429年(永享1年)10月30日:無動寺僧徒、日吉大社神輿を奉じて強訴(資料C1)
  • 1430年(永享2年)11月19日:白山僧徒、加賀国南禅寺領で乱妨?(資料C1)
  • 1432年(永享4年)7月:園城寺如意輪堂(西国霊場)建立。(資料W01)
  • 1433年(永享5年)2月11日:蓮華王院修理開始(資料C1)
  • 1433年(永享5年)3月21日:十楽院実済、近江に総持院(長浜・総持寺)を創建。(資料C1)
  • 1433年(永享5年)7月10日:粉河寺金剛峰寺、灌漑をめぐって争う。高野山坊舎焼失。(資料C1)
  • 1433年(永享5年)7月:永享の山門騒動。幕府の指揮下にあった山門使節が延暦寺僧徒ともに幕府に反発。幕府これを鎮圧する。(資料B1)
  • 1433年(永享5年)7月19日:延暦寺、強訴。(資料C1)
  • 1433年(永享5年)8月12日:延暦寺僧徒、園城寺を襲撃。幕府は園城寺を支援する。(資料C1)
  • 1433年(永享5年)11月27日:延暦寺僧徒、蜂起(資料C1)
  • 1434年(永享6年)8月:幕府、延暦寺僧侶が鎌倉府と共謀して将軍を呪詛するとして、所領を没収。(資料B1)
  • 1434年(永享6年)8月23日:幕府、延暦寺所領を収める。(資料C1)
  • 1434年(永享6年)10月4日:延暦寺僧徒、日吉神輿を奉じて強訴。神輿を鴨川に放置して帰る。(資料C1)
  • 1435年(永享7年)2月5日:幕府、延暦寺僧侶の弁澄を殺害。延暦寺僧徒、総持院、根本中堂を焼く自殺するもの多し。(資料C1、資料B1)
  • 1435年(永享7年)3月18日:幕府、法勝寺五大堂を修復(資料C1)
  • 1439年(永享11年)2月:幕府、延暦寺根本中堂再建のため棟別銭を課す。(資料B1)
  • 1439年(永享11年):熊野新宮火災(資料C1)
  • 1440年(永享12年)8月:平泉寺火災。(資料C1)
  • 1441年(嘉吉1年)9月10日:嘉吉の乱(資料C1)
  • 1442年(嘉吉2年)2月27日:多武峰鳴動。像破裂(資料C1)
  • 1443年(嘉吉3年)1月12日:四天王寺僧徒争う。太子堂、御影堂焼失(資料C1)
  • 1443年(嘉吉3年)1月28日:真盛、伊勢国一志郡小倭荘大仰里で誕生。のち生誕地に伊勢・誕生寺創建。(資料J)
  • 1443年(嘉吉3年)6月:後南朝の尊秀王・日野有光ら、宮中から剣璽を強奪して延暦寺に籠る。衆徒らこれを殺す。(資料B1)
  • 1443年(嘉吉3年)9月28日:延暦寺僧徒、日野資親など賊党50人を斬る。(資料C1)
  • 1447年(文安4年)6月18日:六角堂造営(資料C1)
  • 1449年(宝徳1年)4月:真盛、伊勢光明寺盛源に師事。(『天台宗真盛派年表』)
  • 1449年(宝徳1年)8月:多武峰藤原鎌足廟(談山神社)、再建(資料B1)
  • 1450年(宝徳2年)5月16日:多武峰に薬師像、鎌足像を新造(資料C1)
  • 1450年(宝徳2年)7月:諸国の山伏が新熊野神社に籠城。和泉守護細川常有邸の襲撃を企てる。(資料B1)
  • 1457年(長禄1年)12月2日:金峰山寺僧徒、南朝皇胤と戦闘。赤松氏、皇胤を弑し、神璽を奪うが郷民がこれを奪還。(資料C1)
  • 1462年(寛正3年)2月:池坊専慶、佐々木隆秀に招かれて金瓶に草花を挿す。(資料B1)
  • 1463年(寛正4年)12月8日:播磨円教寺講堂再建(資料C1)
  • 1464年(寛正5年)4月:足利義政夫妻、糺河原で鞍馬寺勧進猿楽を見る。(資料B1)
  • 1464年(寛正5年)12月:浄土寺義尋(6代将軍足利義教の子)、還俗して足利義視となる。(資料B1)
  • 1465年(寛正6年)1月10日:本願寺の寛正法難。延暦寺衆徒、東山の本願寺を襲う。蓮如園城寺万徳院を経て堅田に移る。(資料C1)
  • 1465年(寛正6年)5月23日:北野天満宮黄梅院禅親、勝蔵坊胤禅と神道の流派を争う。(資料C1)
  • 1465年(寛正6年)9月13日:多武峰、大織冠像破裂。(資料C1)

中世3:群雄割拠の戦国勢力の一つとして

  • 1467年(応仁1年)5月:応仁の乱始まる。(資料B1)
  • 1468年(応仁2年)8月4日:西軍、青蓮院檀那院・太子堂・若王寺などを焼き、法勝寺聖護院も兵火に掛かる(資料C1)
  • 1468年(応仁2年)8月26日:東軍、宝寿院泉涌寺妙法院法性寺などを焼く。(資料C1)
  • 1468年(応仁2年)9月21日:西軍、青蓮院を焼く(資料C1)
  • 1468年(応仁2年)9月:園城寺別所如意寺、焼失。(資料W01)
  • 1468年(応仁2年)11月13日:足利義視、義政と和せず、比叡山に逃れ西軍につく(資料C1)
  • 蓮如、延暦寺の襲撃を察知し、親鸞御影像を園城寺万徳院を通じて別所近松寺に預け、御影堂を創建。本願寺近松別院の起源とされる。(資料W01)
  • 1470年(文明2年)1月16日:山城金蔵寺焼く(資料C1)
  • 1473年(文明5年)9月28日:多武峰阿弥陀像を建立。(資料C1)
  • 1474年(文明6年)6月4日:善光寺火災(資料C1)
  • 1475年(文明7年)9月7日:東軍京極政経、延暦寺僧徒と六角高頼を近江で破る。(資料C1)
  • 1475年(文明7年)11月:室町幕府、延暦寺に命じて六角高頼を討たせる。(資料B1)
  • 1477年(文明9年):応仁の乱、終わる。(資料B1)
  • 1478年(文明10年)6月25日:太田道灌、江戸城に日枝神社などを創建。(資料C1)
  • 1478年(文明10年)8月5日:足利義政、蘆山寺に若狭・近江の所領を安堵。(資料C1)
  • 1479年(文明11年)10月5日:足利義政、北野天満宮経堂を修復。(資料C1)
  • 1479年(文明11年):一説に日吉祭復興(資料K)
  • 1480年(文明12年)4月:北野天満宮輪蔵供養。(資料C1)
  • 1481年(文明13年)3月28日:鞍馬寺本堂再建?(資料C1)
  • 1481年(文明13年)6月15日:足利義尚、日野富子とともに無動寺を参詣?(資料C1)
  • 1481年(文明13年)8月10日:三千院堯胤法親王、文殊像を供養(資料C1)
  • 1481年(文明13年)8月:園城寺如意輪堂(西国霊場)、現在地に移転。(資料W01)
  • 1482年(文明14年)4月18日:延暦寺僧徒、横川中堂を焼く。(資料C1)
  • 1483年(文明15年):真盛、黒谷青龍寺に隠棲。(資料D)
  • 1484年(文明16年)6月1日:足利義政、真正極楽寺本尊を一条町から旧地に遷す(資料C1)
  • 1484年(文明16年)9月5日:粉河寺行人、水間寺を攻め、神於寺も焼く。(資料C1)
  • 1484年(文明16年)11月24日:吉田兼倶吉田神社内に大元宮を創建。(資料C1)
  • 1485年(文明17年)3月2日:足利義政、真正極楽寺本堂立柱?(資料C1、資料B1)
  • 1485年(文明17年)6月4日:真盛、延暦寺浄土院に参籠中、夢中に老翁が登場し、『往生要集』を授けられる。真盛派の成立(『天台宗真盛派年表』)
  • 1485年(文明17年)12月8日:真盛、宮中長橋局で『往生要集』講義を7日間行う。褒美の品を全て返上。(『御法興院記』資料J)
  • 1486年(文明18年)2月:真盛、坂本生源寺で『往生要集』講義。
  • 1486年(文明18年)3月30日:真盛、請われて西教寺に入る。西教寺の復興。(『天台宗真盛派年表』)
  • 1486年(文明18年)5月27日:真盛、宮中で『往生要集』講義。30日まで。6月2日にも円頓戒講義。(『天台宗真盛派年表』)
  • 1486年(文明18年)5月27日:真盛に上人号を与える(資料C1)
  • 1486年(文明18年)6月16日:聖護院道興、東国を巡歴(資料C1)
  • 1487年(長享1年)4月:聖護院焼く(資料C1)
  • 1487年(長享1年)6月:第9代将軍足利義尚、葛川明王堂に参籠。(資料B1)
  • 1488年(長享2年)8月上旬:真盛、善光寺参詣。(『天台宗真盛派年表』)
  • 1488年(長享2年)8月28日:真盛、越前国一乗谷朝倉貞景を教化。(『天台宗真盛派年表』)
  • 1489年(延徳1年)1月25日:真盛、西教寺で48日間別時念仏を執行。(『天台宗真盛派年表』)
  • 1490年(延徳2年)1月7日:将軍足利義政死去。真盛が臨終に伺候する。(資料J)
  • 1490年(延徳2年)3月21日:室町幕府、北野天満宮に籠城する土一揆を征討。社殿焼失。(『蔭涼軒日録』資料K)
  • 1490年(延徳2年)4月13日:真盛、伊勢西来寺創建。(『天台宗真盛派年表』)
  • 1490年(延徳2年):土佐光信に大黒天・毘沙門天像を描かせ、天台座主尊応開眼供養を行う。(資料C1)
  • 1491年(延徳3年)9月:第二次六角征討で、将軍足利義材は園城寺光浄院を本陣とする。(資料D)
  • 1491年(延徳3年)3月15日:三条西実隆、西教寺に参拝。真盛から十念を受ける。(『天台宗真盛派年表』)
  • 1492年(明応1年):真盛、戒称一致を唱える。(資料B1)
  • 1492年(明応1年)2月22日:書写山円教寺火災。(資料C1)
  • 1492年(明応1年)3月:真盛、天皇と皇太子に授戒。(『天台宗真盛派年表』)
  • 1492年(明応1年)12月27日:天皇、宸筆の「真盛上人」書軸を下賜。(『天台宗真盛派年表』)
  • 1493年(明応2年)3月3日:真盛、西来寺での別時念仏が結願し、伊勢神宮参拝。(『天台宗真盛派年表』)
  • 1493年(明応2年)4月22日:細川政元、慈照院周嘉を討つため、三宝院通元寺慈受院妙法院を焼く。(資料C1)
  • 1493年(明応2年)8月15日:真正極楽寺本堂再建。(資料C1)
  • 1493年(明応2年)8月:真盛、伊勢山田の安養寺で神領を犯す北畠材親を教誡す。(『天台宗真盛派年表』)
  • 1493年(明応2年)11月15日:近江徳政一揆、日吉大社を拠点に蜂起。延暦寺と日吉大社を焼く。日吉大社には屍が山積みになっていたので西教寺僧侶が供養したところ、延暦寺僧徒が怒り、西教寺を破却し、真盛を追放した。(資料D資料C1)
  • 1494年(明応3年)8月4日:蘆山寺焼く。(資料C1)
  • 1494年(明応3年)8月:常弘法親王を勧修寺長吏として、安祥寺および天王寺検校を兼ねる?(資料C1)
  • 1495年(明応4年)1月:真盛、伊賀西蓮寺で四十八夜念仏を行う。(資料C1)
  • 1495年(明応4年)2月30日:真盛、伊賀西蓮寺で死去(資料J資料C1)。同年、真生が『真盛上人往生伝記』記す。(資料B1)
  • 1495年:曼殊院に慈運法親王が入り、宮門跡となる。(資料E、『 デジタル版 日本人名大辞典+Plus』)
  • 1496年(明応5年)閏2月13日:幕府、八坂神社修造と祇園会再興のための勧進を許可。明応9年(1500)に再興。(『祇園社記』資料K)
  • 1496年(明応5年)9月:蓮如、石山本願寺を建立。(資料C1)
  • 1496年(明応5年)10月13日:多武峰神像破裂。(資料C1)
  • 1498年(明応7年)8月9日:近江百済寺火災。(資料C1)
  • 1499年(明応8年)7月9日:武田信嗣、浅草寺再建をはかる(資料C1)
  • 1499年(明応8年)7月20日:延暦寺僧徒、義尹に応ず。同日、赤沢朝経、延暦寺根本中堂・大講堂などを焼く。(資料C1)
  • 1499年(明応8年)7月:延暦寺衆徒、足利義稙に協力の姿勢を見せたため、細川政元が延暦寺を攻め、根本中堂などを焼く。(資料B1)
  • 1502年(文亀2年)8月5日:実相院義忠宗殺害される(資料C1)
  • 1503年(文亀3年)4月3日:近江・金剛定寺百済寺、兵火にかかる(資料C1)
  • 1504年(永正1年)8月:多武峰僧徒、崇敬寺を焼く(資料C1)
  • 1505年(永正2年)4月19日:東大寺僧徒、多武峰の崇敬寺管理を停止させ、堂舎を再建。(資料C1)
  • 1505年(永正2年)6月8日:西教寺盛全に上人号。(資料C1)
  • 1506年(永正3年)9月5日:赤沢朝経、多武峰寺を焼く。(資料C1)
  • 1506年(永正3年)10月12日:真盛に「円戒国師」号下賜。(『天台宗真盛派年表』)
  • 1507年(永正4年)8月:多武峰伽藍復興(資料C1)
  • 1508年(永正5年)1月24日:延暦寺根本中堂に金剛仏7体を奉安。(資料C1)
  • 1510年(永正7年)2月1日:丹波一宮出雲神社、横川を焼く。(資料C1)
  • 1510年(永正7年)4月4日:多武峰神像破裂。(資料C1)
  • 1512年(永正9年)10月22日:浄土真宗専修寺真恵、死去。真盛との縁から西教寺に埋葬。(資料J)
  • 1513年(永正10年):那智山千手堂火災(資料C1)
  • 1514年(永正11年):興福寺、延暦寺僧徒の清水寺法華堂落慶執行を阻止。(資料C1)
  • 1515年(永正12年)3月21日:熊野本宮大社熊野速玉大社の門徒が争う。(資料C1)
  • 1516年(永正13年)2月24日:多武峰僧徒と興福寺僧徒争う(資料C1)
  • 1518年(永正15年)11月2日:多武峰神像破裂。(資料C1)
  • 1518年(永正15年)1月:延暦寺根本中堂、竣工。(資料B1)
  • 1521年(大永1年)8月29日:真正極楽寺再建?(資料C1)
  • 1522年(大永2年)8月6日:幕府、実相院の寺領を安堵(資料C1)
  • 1522年(大永2年)8月:加賀白山社再建のため、越前平泉寺僧徒、美濃の棟別銭を求める。(資料C1)
  • 1524年(大永4年)6月23日:延暦寺僧徒、日蓮宗僧が僧綱となるのを拒否(資料C1)
  • 1524年(大永4年)8月15日:『真如堂縁起』の外題を宸筆で書く(資料C1)
  • 1525年(大永5年)4月1日:知仁親王の子、曼殊院慈雲の弟子となり、覚超と称す(資料C1)
  • 1526年(大永6年)9月27日:多武峰鳴動(資料C1)
  • 1527年(大永7年)12月9日:豊前求菩提権現如法寺依庚と寺領を争う。(資料C1)
  • 1527年(大永7年)12月23日:北野天満宮松梅院炎上(資料C1)
  • 1527年(大永7年):真玄、聖衆来迎寺を復興。(資料D)
  • 1528年(享禄1年)9月8日:実相院に大雲寺領を安堵(資料C1)
  • 1530年(享禄3年)9月26日:青蓮院尊鎮法親王、薬師仏3万体を刷る(資料C1)
  • 1531年(享禄4年)1月:法勝寺など火災?(資料C1)
  • 1534年(天文3年)9月29日:幕府、実相院に末寺山城西法華堂を再興させる。(資料C1)
  • 1535年(天文4年):浅草寺火災。(資料C1)
  • 1535年(天文4年):延暦寺僧徒、日蓮宗が「法華宗」を称することに抗議。(資料C1)
  • 1536年(天文5年)1月1日:天海、陸奥国会津郡高田郷(天海生誕地)で誕生。(『日本大百科全書』『デジタル版 日本人名大辞典+Plus』)
  • 1536年(天文5年)3月24日:延暦寺、加賀商人の商売物を坂本で強奪。本願寺、これに対して、加賀の延暦寺領から徴することを延暦寺に通達する。(資料C1)
  • 1536年(天文5年)5月23日:日蓮宗宗徒、延暦寺僧徒と争う。(資料C1)
  • 1536年(天文5年)7月27日:延暦寺僧徒、六角定頼の支援を得て四条口で日蓮宗宗徒を破り、京都の日蓮宗寺院を焼く。天文法華の乱。(資料C1)
  • 1539年(天文8年)10月:延暦寺、法然の「光照菩薩」号宣下を阻止する。(資料B1)
  • 1541年(天文10年)1月5日:延暦寺僧徒、覚鑁に「自性大師」号を賜うことに抗議して強訴。朝廷撤回。(資料C1)
  • 1542年(天文11年)10月:池坊専応『専応口伝』。(資料B1)
  • 1544年(天文13年)7月9日:黒谷坊・鞍馬寺山門・延暦寺僧坊など流失。(資料C1)
  • 1548年(天文17年)4月10日:日光満願寺(日光・輪王寺)・結城政勝ら、皇居御修理料を献上(資料C1)
  • 1549年(天文18年)6月18日:常陸真言宗和光院が法華経を講じたところ、同国天台宗薬王院および大雲寺が抗議して和光院に乱入。(資料C1)
  • 1549年(天文18年):フランシスコ・ザビエル、鹿児島上陸。キリスト教伝来。(資料A1)
  • 1551年(天文20年)4月2日:園城寺僧徒、山城安祥寺を焼く(資料C1)
  • 1554年(天文23年)5月:加賀白山噴火。(資料C1)
  • 1555年(弘治1年)7月:川中島の戦い。(資料B1)
  • 1556年(弘治2年)12月:延暦寺僧徒、鰐淵寺と清水寺の座次争いに介入。(資料C1)
  • 1556年:武田信玄善光寺如来を鹵獲し、信濃から甲斐に遷座。甲斐善光寺の起源。(資料E)
  • 1559年(永禄2年)9月29日:多武峰再建(資料C1)
  • 1562年(永禄5年)6月23日:熊野本宮大社火災(資料C1)
  • 1562年(永禄5年)8月:鰐淵寺毛利元就に所領を安堵される。(資料B1)
  • 1562年(永禄5年)12月28日:幕府、北野天満宮真満院禅乗に光園院領を安堵。(資料C1)
  • 1566年(永禄9年)1月:武田信玄、天台宗に帰依し、毘沙門堂を立て護摩を修す。灌頂を受け、自ら法性院大僧正と称す。(資料C1)
  • 1567年(永禄10年)10月10日:松永久秀の乱で東大寺大仏殿焼失。(資料C1)
  • 1568年(永禄11年)9月24日:織田信長、入京を控えて園城寺光浄院に陣を構える。(資料D)
  • 1569年(永禄12年)4月:東大寺大仏の螺髪を京都の北野天満宮経堂で鋳造?(資料C1)
  • 1569年(永禄12年)6月:多武峰僧徒、金峰山寺僧徒と争う(資料C1)
  • 1570年(元亀1年)10月3日:延暦寺西塔火災(資料C1)
  • 1570年(元亀1年)10月30日:青蓮院尊朝法親王、本願寺顕如に勧めて、信長と和議。(資料C1)

近世:比叡山の国家権力への屈服、東照大権現のご威光の下に

比叡山焼き討ち、方広寺創建、東照大権現の奉斎

  • 1571年(元亀2年)9月12日:織田信長延暦寺日吉大社を焼き討ちにする。西教寺も焼失。園城寺は被害を免れる。(『当代記』資料K)
  • 1571年(元亀2年):焼き討ち後、大津城主明智光秀、西教寺の復興を支援。(資料J)
  • 1571年:織田信長、熊野那智を焼き討ち。(新宮市ウェブサイト)
  • 1572年(元亀3年):三塔執行代が曼殊院門跡を通じ、武田信玄に延暦寺再建を請願。織田信長が認めず。(資料D)
  • 1572年(元亀3年):一説に、佐々木義郷が700石を寄進し、延暦寺を蒲生郡中荘山に移して坊舎72を構え、「新比叡山」を号したという。上杉文秀は中荘山を長命寺のことかと推測している。(資料L)
  • 1573年(天正1年)5月:今堅田の合戦の戦死者供養のために明智光秀、西教寺に供養米を寄進。(資料D)
  • 1573年(天正1年)7月:織田信長、将軍足利義昭を京都から追放。室町幕府滅亡。(資料B1)
  • 1573年:廬山寺、現在地に移転。(資料E)
  • 1574年:西教寺仮本堂を建立。本尊を甲賀浄福寺から迎える。(資料J)
  • 1575年(天正3年)4月10日:毛利輝元、鰐淵寺本堂再建。(資料C1)
  • 1575年(天正3年)8月4日:関東の天台宗・真言宗の宗徒、絹衣着用について争論。(資料B1)
  • 1575年(天正3年)10月:日吉大社祝部の行丸、梶井宮(三千院)応胤法親王を通じて社殿復興を請願。(『桂林集』資料D)
  • 1576年(天正4年)6月29日:関東の天台宗・真言宗の宗徒、絹衣着用について争論。青蓮院三宝院など本寺の規則に従うように命ず。(資料C1)
  • 1576年:織田信長、四天王寺を焼き討ち。全山焼失。(資料E)
  • 1580年(天正8年)閏3月5日:本願寺顕如、織田信長と和睦し石山合戦が終わる。(資料K)
  • 1581年(天正9年)10月8日:大友宗麟、英彦山を焼く。(資料B1)
  • 1582年(天正10年)6月2日:本能寺の変。(資料K)
  • 1582年(天正10年)10月:延暦寺の生存者31人が帰山し、再興を図り、豊臣秀吉と交渉するが許可を得られず。(資料D)
  • 1582年(天正10年)11月:日吉大社再建の勅許。(『華頂要略』資料D)
  • 1582年(天正10年):青蓮院門跡尊朝法親王、「比叡山再興勧進帳」を作成。(資料D)
  • 1582年(天正10年):明智光秀の跡に大津城主となった丹羽長秀らは西教寺に72石を安堵。(資料D)
  • 1582年(天正10年):越前西光寺、柴田勝家が檀越となり、現在地に移転。(『天台宗真盛派年表』)
  • 1584年(天正12年)5月1日:豊臣秀吉、延暦寺再興許可。2000石を寄進。(資料C1、『最澄と天台教団』)
  • 1584年(天正12年)6月10日:青蓮院尊朝法親王、末寺羽賀寺を再興。(資料C1)
  • 1584年(天正12年)7月:豊臣秀吉、蓮華王院、御影堂に禁制下す(資料C1)
  • 1584年(天正12年)9月:良信、横川中堂の勧進を行う。(資料C1)
  • 1584年(天正12年)10月7日:近江佐和山の土屋秀政、百済寺本堂を再建。(資料C1)
  • 1584年(天正12年)10月21日:尊朝法親王、諸国末寺の法度を定める。(資料C1)
  • 1585年(天正13年)3月:豊臣秀吉、西塔再建のために銀1万貫を寄進。(資料D)
  • 1585年(天正13年)4月2日:上総の日蓮宗光福寺日穏など、天台宗と争論して死す。(資料C1)
  • 1585年(天正13年)6月:延暦寺根本中堂の再建が始まる。(資料D)
  • 1585年(天正13年)7月:豊臣秀吉、関白となる。(資料B1)
  • 1585年(天正13年)8月25日:豊臣秀吉、多武峰の武装を解除。(資料C1)
  • 1585年(天正13年)9月6日:多武峰に当地の支配を認める。(資料C1)
  • 1585年(天正13年)11月:三十三間堂の仏像600体が転倒。(資料B1)
  • 1586年(天正14年):日吉大社西本宮再建。(資料K)
  • 1586年(天正14年):豊臣秀吉、方広寺創建。蓮華王院は方広寺の山内寺院となる(資料E『京都市ウェブサイト』)
  • 1587年(天正15年)2月25日:西教寺、真盛100回忌。(『天台宗真盛派年表』)
  • 1587年(天正15年)5月26日:寺社奉行前田玄以、曼殊院北野天満宮別当職を安堵。(資料C1)
  • 1587年(天正15年)6月19日:バテレン追放令。(資料K)
  • 1587年(天正15年)10月1日:北野大茶会(資料C1)
  • 1588年(天正16年)4月3日:豊臣秀長、多武峰寺を大和郡山に遷座させる。(資料C1)
  • 1588年(天正16年)5月:方広寺大仏殿建立開始。そのため仏光寺は現在地に移転。(資料B1)
  • 1589年(天正17年)1月23日:豊臣秀吉、方広寺大仏殿用材調達を島津義弘に命ず。(資料C1)
  • 1589年(天正17年)2月18日:方広寺大仏殿の釈迦像鋳造開始。(資料C1)
  • 1590年(天正18年)4月:豊臣秀吉、青岸渡寺に鰐口寄進。(資料C1)
  • 1590年(天正18年)8月22日:後陽成天皇は綸旨を下し、法勝寺の「戒場」を西教寺に移す。本尊薬師如来を西教寺桃山御殿に遷座。法勝寺に代えて西教寺住職に紫衣勅許。(資料D資料J)
  • 1590年(天正18年):慶俊、飯室不動堂を拠点とする回峰行を復興。(資料D)
  • 1590年(天正18年):一説に天海、徳川家康と知遇を得るという(『最澄と天台教団』)
  • 1590年(天正18年):豊臣秀吉、小田原北条氏に加担した日光山の所領を没収。(日光市ウェブサイト)
  • 1591年(天正19年)5月:方広寺大仏殿立柱上棟。(資料B1)
  • 1592年(文禄1年)1月:文禄の役。(資料B1)
  • 1593年(文禄2年)8月24日:方広寺大仏殿上棟(資料C1)
  • 1593年(文禄2年)11月26日:方広寺大仏殿で連歌会を行う(資料B1)
  • 1594年(文禄3年)11月:延暦寺飯室谷の松禅院・山本坊・長寿院・円乗院が法勝寺流の存続を願い、帝釈寺の伽藍・山林・境内地を西教寺に寄進。(資料D)
  • 1594年(文禄3年):豊臣秀吉、四天王寺再興。(資料E)
  • 1595年(文禄4年)9月21日:豊臣秀吉、聖護院道澄を方広寺住職に任命。1万石を寄進。(資料C1)
  • 1595年(文禄4年)9月24日:妙覚寺日奥、方広寺大仏殿の法要に出席拒否。(資料B1)
  • 1595年(文禄4年)9月25日:方広寺大仏殿竣工。豊臣秀吉、方広寺経堂で父母報恩法会の千僧供養を実施。(資料B1)
  • 1595年(文禄4年)11月17日:豊臣秀吉、突如、園城寺を廃絶(欠所)とする。園城寺が豊臣秀次に加担していたためとも言われるが理由は不明という。わずかな堂を残し、伽藍は破却された。本尊弥勒菩薩などは照高院に移された。(資料D)
  • 1595年(文禄4年):日吉大社東本宮再建。文禄6年までに山王七社復興。(資料D)
  • 1596年(慶長1年)1月21日:方広寺楼門立柱。(資料C1)
  • 1596年(慶長1年)1月29日:方広寺千僧供養(資料C1)
  • 1596年(慶長1年)7月13日:京都大地震。方広寺大仏、倒壊。大仏殿は破損するが倒壊せず。(資料C1)
  • 1596年(慶長1年)8月:白山比咩神社、前田利家の寄進で社殿再建し遷座。(『白山比咩神社略記』資料K)
  • 1596年(慶長1年)10月:方広寺千僧供養。(資料C1)
  • 1596年(慶長1年)12月8日:豊臣秀吉、西教寺90石を寄進。(資料D)
  • 1596年(慶長1年):廃絶となった園城寺金堂を比叡山に移築し、西塔釈迦堂として転用された。(資料D)
  • 1597年(慶長2年)1月:慶長の役。(資料K)
  • 1597年(慶長2年)7月18日:豊臣秀吉、善光寺如来を方広寺大仏殿に遷座させる。(資料C1)
  • 1598年(慶長3年)6月:天台宗僧500人、真言宗僧500人に方広寺千僧供養出仕を命じる。(資料C1)
  • 1598年(慶長3年)8月16日:豊臣秀吉、方広寺の善光寺如来を善光寺に戻す。善光寺如来、武田信玄による甲斐遷座以来、約40年ぶりに信濃に還座(資料B1)
  • 1598年(慶長3年)8月17日:豊臣秀吉、園城寺再興を許可。同年、唐院の造営が始まる。(資料D)
  • 1598年(慶長3年)8月18日:豊臣秀吉死去。(資料B1)
  • 1598年(慶長3年)9月7日:秀吉を阿弥陀峰に葬る。聖護院道証を導師に千僧供養を方広寺で行う。(資料C1)
  • 1598年(慶長3年)12月18日:方広寺鎮守として豊国神社社殿造営。(資料C1)
  • 1598年(慶長3年)12月26日:徳川家康、園城寺寺領4327石安堵。(資料C1)
  • 1598年(慶長3年)12月:西教寺仏殿落慶(『天台宗真盛派年表』)
  • 1598年(慶長3年):蓮華王院三十三間堂再建。(資料E)
  • 1599年(慶長4年)4月17日:「豊国大明神」号(資料B1)
  • 1599年(慶長4年)4月18日:豊国神社創建(『豊臣家譜』資料K)
  • 1599年(慶長4年)5月7日:豊臣秀頼、方広寺大仏の鋳造のため、島津忠恒に唐銅を購入させる。(資料C1)
  • 1599年(慶長4年)9月:園城寺講堂立柱(資料C1)
  • 1599年(慶長4年)11月20日:豊臣秀吉追悼の千僧供養。日奥が不受不施を唱え、流罪となる。(資料B1)
  • 1599年(慶長4年):天海喜多院住職に就任。(資料D、一説に1588年(天正16年)ともいう(資料L))
  • 1599年(慶長4年):北政所、園城寺金堂再建(現在の金堂)。(資料D)
  • 1600年(慶長5年)3月:豊臣秀頼、方広寺に七層塔を建立。(資料C1)
  • 1600年(慶長5年)7月:天海、神田の薬師堂で鎮護国家の祈祷を行う。このことが徳川家康の耳に入り、二人を引き合わせたという。(資料L)
  • 1600年(慶長5年)9月15日:関ケ原の戦い。(資料B1)
  • 1600年(慶長5年)12月:方広寺大仏殿焼失。(資料C1)
  • 1601年(慶長6年):徳川家康、延暦寺に寺領5000石を安堵。日吉大社分も含む。(資料D)
  • 1601年(慶長6年):徳川家康、善光寺に1000石を安堵。(資料C1)
  • 1601年(慶長6年):徳川家康、旧伏見城の楼門(元は常楽寺楼門)と三重塔(元は比蘇寺三重塔)を園城寺に寄進して移築。慶長5年ともいう。(資料W01)
  • 1602年(慶長7年)2月:東本願寺創建。(資料G03)
  • 1602年(慶長7年)12月4日:方広寺大仏殿焼失(資料C1)
  • 1603年(慶長8年)2月12日:徳川家康、征夷大将軍となる。(資料K)
  • 1603年(慶長8年)5月29日:方広寺大仏殿、千僧供養。(資料C1)
  • 1604年(慶長9年):淀君の寄進で横川中堂を再建。(資料D)
  • 1605年(慶長10年)4月16日:徳川家康隠居して、徳川秀忠、征夷大将軍に就任する。(資料C1)
  • 1606年(慶長11年)6月20日:幕府、修験近江飯道寺と伊勢世義寺の争論を仲裁。(資料C1)
  • 1607年(慶長12年)2月:徳川家康、駿府に移る。(資料C1)
  • 1607年(慶長12年)7月3日:多武峰寺神像破裂。野獣の声あり。(資料C1)
  • 1607年(慶長12年)12月:関東の修験者、真言・天台と役銭について争論。(資料B1)
  • 1607年(慶長12年):徳川家康、天海に比叡山復興を命じ、天海は延暦寺南光坊に入る。(資料D)
  • 1608年(慶長13年)6月28日:園城寺中興道澄、死去。(資料W01)
  • 1608年(慶長13年)7月17日:幕府、延暦寺に5000石寄進。(資料C1)
  • 1608年(慶長13年)8月8日:幕府、比叡山法度を制定。(資料C1)
  • 1608年(慶長13年)9月22日:多武峰寺破裂の慰撫のため、勅使として梵舜を派遣。(資料C1)
  • 1608年(慶長13年)10月4日:近江成菩提院に法度制定。寺領寄進。(資料C1)
  • 1609年(慶長14年)1月:徳川家康、方広寺大仏殿再建着手。(資料B1)
  • 1609年(慶長14年)5月1日:江戸幕府、園城寺寺務条規・修験道法度を聖護院に下す。(資料K資料G03)
  • 1610年(慶長15年)4月28日:伯耆大山寺3000石を安堵。(資料C1)
  • 1610年(慶長15年)9月:豊臣秀頼、方広寺大仏殿を再建?(資料C1)
  • 1610年(慶長15年)11月26日:豊国神社1万石を安堵。(資料C1)
  • 1611年(慶長16年)8月:キリスト教禁止令(資料C1)
  • 1611年(慶長16年)10月18日:伯耆大山寺3000石安堵?(資料C1)
  • 1611年(慶長16年)11月29日:大仏殿再建?(資料C1)
  • 1611年(慶長16年):天海、僧正となる(資料C1)
  • 1611年(慶長16年):後陽成天皇、毘沙門堂門跡復興の勅。(資料E)
  • 1612年(慶長17年)3月21日:禁教令(資料K)
  • 1612年(慶長17年)4月:修験道本山派と当山派が争う。徳川家康、調停。(資料B1)
  • 1612年(慶長17年)5月1日:幕府、戸隠神社社領1000石を安堵。戸隠山法度を定める(『徳川実記』資料K(資料C1)
  • 1612年(慶長17年)5月1日:多武峰寺3000石安堵(資料C1)
  • 1612年(慶長17年):徳川家康、天海に川越無量寿寺を復興させ、東叡山と称させる。北院を喜多院と改称。本尊を阿弥陀如来から薬師如来に変更。(資料L)
  • 1613年(慶長18年)2月28日:関東天台宗法度を下す。常陸千妙寺・常陸薬王院・武蔵中道院慈恩寺に法度。(資料C1。同年表では8月26日とも。資料Lには8月28日とある)
  • 1613年(慶長18年):喜多院に500石寄進。(資料L)
  • 1613年(慶長18年)3月13日:浅草寺に500石寄進。浅草寺法度制定。(資料C1)
  • 1613年(慶長18年)3月29日:修験道、本山派と当山派で争論(資料C1)
  • 1613年(慶長18年)5月5日:本山派と当山派、役儀のことで争い、徳川家康、照高院興意法親王と三宝院義演を招聘して裁決。(資料G03)
  • 1613年(慶長18年)5月21日:聖護院法度、三宝院法度制定。修験道本山派の成立。(資料C1、資料G03)
  • 1613年(慶長18年)10月:徳川家康・秀忠、喜多院天海の論議を聴く。(資料C1)
  • 1613年(慶長18年)12月23日:バテレン追放令(資料C1)
  • 1613年(慶長18年):徳川家康、天海日光山別当とする(資料K)
  • 1614年(慶長19年)4月:方広寺大仏殿竣工。(資料B1)
  • 1614年(慶長19年)3月13日:伯耆大山寺西楽院法度制定。(資料C1)
  • 1614年(慶長19年)4月16日:方広寺梵鐘完成(資料C1)
  • 1614年(慶長19年)7月26日:大仏開眼供養について座位・鐘銘・棟札で争論。(資料C1)
  • 1614年(慶長19年)8月18日:臨済宗五山の僧、方広寺鐘銘を批判。方広寺鐘銘事件。(資料C1)
  • 1614年(慶長19年):梵鐘事件に連座して、方広寺別当道澄が創建した照高院門跡廃絶。(京都市ウェブサイト)
  • 1614年(慶長19年)9月5日:榛名山厳殿寺法度制定。(資料C1)
  • 1614年(慶長19年)9月24日:キリスト教宣教師・高山右近らをマカオ・マニラに追放。(資料C1)
  • 1614年(慶長19年)10月1日:大坂追討を命じる。大坂冬の陣。12月19日まで。(資料B1)
  • 1614年(慶長19年)12月5日:内山永久寺・吉野の山伏ら、大坂方に付く(資料C1)。
  • 1615年(元和1年)4月1日:大坂夏の陣。5月まで。この合戦で四天王寺焼失(資料E)。
  • 1615年(元和1年)7月9日:豊国神社廃止。社殿は方広寺に移される。(資料K)
  • 1615年(元和1年)7月17日:武家諸法度、禁中並公家諸法度制定。(資料C1)
  • 1615年(元和1年)7月24日:諸宗本山本寺法度。(資料B1)
  • 1615年(元和1年):妙法院門跡、現在地に移転し、方広寺・蓮華王院新日吉神社後白河天皇御影堂を管轄下とする(資料E『京都市ウェブサイト』))
  • 1615年(元和1年):後陽成天皇の勅で、天海が坂本に延暦寺本坊を創建し、旧法勝寺の名を移す。滋賀院の創建。(資料B1)
  • 1616年(元和2年)4月17日:徳川家康死去。久能山に埋葬(久能山東照宮の起源)。翌年、日光に改葬(日光東照宮の起源)。(資料B1)
  • 1616年(元和2年)5月3日:徳川家康の神号をめぐり、梵舜と天海が対立。(資料C1)
  • 1616年(元和2年)7月:天海、大僧正となる。(資料B1)
  • 1616年(元和2年)10月26日:幕府、天海を日光に派遣。(資料C1)
  • 1617年(元和3年)2月21日:朝廷、徳川家康に「東照大権現」号を下賜。(資料C1)
  • 1617年(元和3年)4月8日:徳川家康の遺骸を日光に改葬(資料C1)
  • 1618年(元和4年)1月20日:偽山伏を禁止。(資料C1)
  • 1618年(元和4年)4月17日:江戸城内に紅葉山東照宮創建。(資料K)
  • 1619年(元和5年)6月:前田利光、加賀白山比咩神社を造営。(『前田文書』資料K)
  • 1619年(元和5年):興意法親王、照高院門跡を北白川に復興。(京都市ウェブサイト)
  • 1621年(元和7年)2月27日:水戸東照宮創建(資料C1)
  • 1621年(元和7年)10月:和歌山東照宮創建。(資料C1)
  • 1622年(元和8年):幕府、延暦寺に山林法度を定める。(資料D)
  • 1622年(元和8年)4月7日:日光社参法度制定。(資料C1)徳川秀忠、日光社参。七回忌。(資料C1)
  • 1622年(元和8年)8月20日:新規寺院創建を禁止し、私に寺号を称することを禁止。(資料G03)

寛永寺の創建と輪王寺宮の創設

  • 1622年(元和8年)12月:天海、江戸に寺院の創建を発願し、徳川秀忠これを認める。(資料L)
  • 1623年(元和9年):天海、日吉大社日吉東照宮創建を発願。(資料D)(資料Kには創建とある。)
  • 1623年(元和9年)7月27日:徳川家光、征夷大将軍となる。(資料B1)
  • 1624年(寛永1年)1月21日:日光山造営法度を制定。同年陽明門完成(資料C1)
  • 1625年(寛永2年)11月30日:天海、寛永寺創建(資料C1)。徳川家光、2000石を寄進(資料L)。
  • 1626年(寛永3年)11月:藤堂高虎、上野東照宮創建。??(資料B1)(資料Kには1625年)
  • 1626年(寛永3年):亀戸天神社創建。(資料B1)
  • 1627年(寛永4年)7月19日:紫衣事件。(資料A1)
  • 1627年(寛永4年)9月17日:上野東照宮創建。遷宮。(資料C1)
  • 1628年(寛永5年)1月:徳川家光、紅葉山東照宮を参拝。以後恒例。(資料K)
  • 1628年(寛永5年)4月17日:徳川家康十三回忌に徳川秀忠・家光、日光社参。(資料C1)
  • 1629年(寛永6年)4月17日:徳川家光、日光社参(資料C1)
  • 1629年(寛永6年)6月:目黒の滝不動、参詣多し(資料C1)
  • 1629年(寛永6年)6月:大徳寺の沢庵宗彭・玉室宗珀を法度違反のため流罪。(資料G03)
  • 1629年(寛永6年)7月25日:紫衣事件で玉室宗珀・沢庵宗彭ら配流(資料C1)
  • 1629年(寛永6年)9月:紀伊熊野本宮?火災。善光寺火災(資料C1)
  • 1630年(寛永7年)8月:江戸日枝神社再建(『東武実録』資料K)
  • 1631年(寛永8年):延暦寺、暴風雨で被害。大講堂・法華堂・常行堂・四季講堂などが倒壊。(資料D)
  • 1631年(寛永8年)4月2日:江戸浅草寺焼失(資料C1)
  • 1631年(寛永8年)8月:土居利勝、徳川秀忠の病気平癒のために上野東照宮に五重塔・鐘楼を立てる(資料C1)
  • 1632年(寛永9年):諸宗が末寺帳を幕府に提出。(資料B1)
  • 1633年(寛永10年)12月17日:天海、江戸城内に二の丸東照宮を創建。勅使・奉幣使・院使参向。(『続史愚抄』資料K)
  • 1634年(寛永11年)5月2日:幕府、日光山方式、日光東照宮条規を制定し、社領7000石を安堵(『日光雑話』資料K)
  • 1634年(寛永11年)5月29日:幕府、天海の奏請で、松平正総・伊丹康勝の罪を許し、宗彭・宗珀を京都に復帰させる。(資料G03)
  • 1634年(寛永11年)閏7月14日:聖護院道晃法親王と照高院道周法親王が園城寺長吏職を争うのを幕府、どちらも許さず。(資料G03)
  • 1634年(寛永11年)9月16日:徳川家光、日光社参(資料B1)
  • 1634年(寛永11年)10月:日蓮宗僧真迢、霊感を得て天台宗に改宗。(『天台宗真盛派年表』)
  • 1634年(寛永11年):日吉東照宮創建。(資料D)
  • 1634年(寛永11年):後水尾天皇第二皇子誕生に際し、徳川家光、請願して皇子を天海の法嗣とする。のちの輪王寺宮門跡。(資料L)
  • 1635年(寛永12年)11月9日:幕府、寺社奉行設置。(『東徴別録』資料K)
  • 1635年(寛永12年):この頃、全国で寺請制度が始まる。(資料K)
  • 1635年(寛永12年):天草島原の乱。(資料A1)
  • 1636年(寛永13年)4月:日光東照宮竣工。(資料B1)
  • 1636年(寛永13年)11月9日:諸国寺社に安堵の朱印帳。(資料K)
  • 1636年(寛永13年)4月10日:日光東照宮、正遷宮(資料B1)
  • 1637年(寛永14年)10月:天草島原の乱。(資料B1)
  • 1637年(寛永14年)3月:天海版大蔵経(資料C1)
  • 1637年(寛永14年)冬:真迢、西教寺15世となる。(『天台宗真盛派年表』)
  • 1639年(寛永16年)9月16日:天海、『東照宮縁起』。(資料B1)
  • 1640年(寛永17年)4月17日:徳川家光、日光社参(資料C1)
  • 1640年(寛永17年):西教寺禅明坊の寮主を西来寺とする。(『天台宗真盛派年表』)
  • 1641年(寛永18年):羽黒山別当天宥、天海の弟子となり、羽黒山を寛永寺末とし真言宗から天台宗に帰参(同じ修験でも主流の聖護院末(修験道本山派)ではない)。羽黒山は湯殿山の支配も試みるが、湯殿山は真言宗を維持。(資料K)
  • 1641年(寛永18年):聖護院道晃親王、園城寺寺法を制定(資料G03)
  • 1642年(寛永19年):延暦寺根本中堂再建。織田信長の焼き討ち後の復興が一段落。本尊は美濃横蔵寺から遷座。現在の建物。文殊楼もこの年再建。(資料D『最澄と天台教団』)
  • 1642年(寛永19年):<チベット>ダライ・ラマ政権成立。(『岩波仏教辞典 第二版』)
  • 1642年(寛永19年)2月17日:浅草寺焼失(資料C1)
  • 1642年(寛永19年)4月18日:徳川家光、日光社参(資料C1)
  • 1642年(寛永19年)10月:天海一切経重版(資料C1)
  • 1643年(寛永20年)7月:朝鮮通信使、日光東照宮に参拝。(『徳川実記』資料K)
  • 1643年(寛永20年)10月2日:天海、寛永寺で死去。(資料L)(資料C1では10月1日とする)
  • 1643年(寛永20年)3月:千妙寺条目(資料C1)
  • 寛永年間:四天王寺伽藍再建。(資料E)
  • 1644年(正保1年):<中国>清、北京に遷都。中国支配。(『岩波仏教辞典 第二版』)
  • 1644年(正保1年)12月23日:幕府、日光東照宮、上野東照宮、仙波東照宮の年中祭祀などを定める(『徳川実記』資料K)
  • 1645年(正保2年)11月11日:朝廷、日光東照社に宮号を与える(これ以前は「東照社」だが、この年表では簡略化のため東照宮で統一してある)(『徳川禁令考』資料K)。
  • 1645年(正保2年)3月17日:徳川家光、黒書院で天台宗論議を聴く(資料C1)
  • 1645年(正保2年):日光山学頭修学院創建。(日光市ウェブサイト)
  • 1646年(正保3年)12月17日:寛永寺円頓院に2000石。久能山東照宮3000石寄進。武蔵無量寺500石。滝山寺612石(資料C1)
  • 1646年(正保3年)3月10日:朝廷、徳川家光の要請で、日光例幣使を派遣。以後恒例。前年創始説もある。(資料K)
  • 1646年(正保3年):幕府、延暦寺に東照宮領200石、慈眼大師堂領50石を加増。(資料D)
  • 1646年(正保3年)3月10日:日光例幣使始まる(資料C1)
  • 1647年(正保4年):日光山満願寺(現・輪王寺)本堂竣工。(資料B1)
  • 1647年(正保4年)3月18日:浅草寺縁日に群集殺到(資料C1)
  • 1647年(正保4年)9月29日:守澄法親王、輪王寺門跡となる下向。(資料C1)
  • 1648年(慶安1年):「天海版一切経」完成。(資料B1)
  • 1648年(慶安1年)3月:東照宮三十三年祭、臨時奉幣使。(『続史愚抄』資料K)
  • 1648年(慶安1年)4月11日:日光供奉の法令。慈眼大師。(資料C1)
  • 1648年(慶安1年)10月25日:毘沙門堂門跡の措置に抗議する日光山山伏らが脱走した件について、幕府、山伏らを佐渡に流罪とする。(資料G03)
  • 1649年(慶安2年)4月17日:徳川家綱、日光社参。強飯式をみる(資料C1)
  • 1649年(慶安2年)6月1日:山王祭についておふれ(資料C1)
  • 1649年(慶安2年)8月3日:守澄法親王、一品に叙す。(『東叡山御門主略譜』資料L)
  • 1650年(慶安3年)3月16日:浅草寺に仏具金千両を寄進(資料C1)
  • 1651年(慶安4年)5月6日:徳川家光、日光輪王寺に埋葬。大猷院廟の創建。(資料C1)
  • 慶安年間:後水尾天皇、寛永寺を勅願寺とし、宸翰の額を下賜。(『東叡山志料』資料L)
  • 1652年:日光山守護職(のちの日光奉行)設置(『ブリタニカ国際大百科事典』)
  • 1653年(承応2年)4月5日:毘沙門堂公海、阿蘇山の衆徒と行者が対立する衣体をめぐる争論について裁決。行者を追放。阿蘇山を寛永寺末とする。(資料G03)
  • 1653年(承応2年)10月:琉球国使、日光東照宮に参拝。(『徳川実記』資料K)
  • 1653年(承応2年)閏6月26日:日光東照宮と霊廟にそれぞれ5000石寄進(資料C1)
  • 1653年(承応2年)11月20日:徳川家綱、大猷院廟参詣。3000石を付す(資料C1)
  • 1654年(承応3年):浅草寺開帳の記録。(資料B1)
  • 1654年(承応3年):浅草寺開帳(資料C1)
  • 1654年(承応3年):八坂神社完成(資料C1)
  • 1655年(明暦1年):守澄法親王、天台座主となる。(『東叡山御門主略譜』資料L)
  • 1655年(明暦1年)11月26日:守澄法親王、輪王寺宮門跡となる。寛永寺による支配体制が確立。西教寺は山門執行代の管轄下に置かれる。(『東叡山御門主略譜』資料L資料D)
  • 1655年(明暦1年)9月4日:日光山法度。滋賀院法度。徳川家綱、輪王寺に1万3600石寄進。(資料C1)
  • 1655年(明暦1年):幕府、滋賀院領1000石を延暦寺に加増。滋賀院の名はこのときに与えられたか(資料D資料E)
  • 1655年(明暦1年):水観寺本堂を再建。(資料W01)
  • 1655年(明暦1年)7月26日:真観、江戸湯島に真盛寺を創建し、西教寺末とする。(『天台宗真盛派年表』)
  • 1656年(明暦2年)2月:天台宗法度。(資料C1)
  • 1656年(明暦2年):曼殊院門跡、現在地に移転。(資料E)
  • 1657年(明暦3年)1月18日:明暦の大火。江戸城本丸や江戸日枝神社など焼失。(資料K)
  • 1657年(明暦3年)4月:寛永寺末寺掟(資料C1)
  • 1659年(万治2年)4月29日:日枝神社造営開始(資料C1)
  • 1659年(万治2年)6月:隠元、万福寺創建。(資料C1)
  • 1659年(万治2年)11月12日:寛永寺・増上寺伝通院知楽院の寺地で人に賃借して建物を立てることを禁止。新造のものは撤去させる。(資料G03)
  • 1662年(寛文2年)2月:方広寺大仏を解体して銅銭。木像とする(資料C1)
  • 1662年(寛文2年)3月:方広寺大仏を破却して銅銭を鋳造する。(資料B1)
  • 1662年(寛文2年)11月:『多武峰縁起』(資料K)
  • 1663年(寛文3年)4月17日:徳川家綱、日光社参(資料C1)
  • 1664年(寛文4年)4月:方広寺大仏の木像造営始まる(資料C1)
  • 1664年(寛文4年)9月1日:肥後神護寺の僧侶、妙法院門跡の准許で紫衣を着用。寛永寺これを停止させるが、妙法院門跡に訴える。堯如法親王、「旧によらしめる」(資料G03)
  • 1664年(寛文4年):徳川家綱、四天王寺伽藍を整備(資料E)
  • 1665年(寛文5年):諸宗寺院法度(資料A1)
  • 1665年(寛文5年)7月:諸宗寺院法度・諸社禰宜神主法度(資料C1)
  • 1665年(寛文5年)10月19日:僧侶・修験・願人・行人などの町屋での祈祷を禁止(資料C1)
  • 1665年(寛文5年)12月12日:豊国祭再興。(資料C1)
  • 1665年(寛文5年):中尊寺、寛永寺直末となる。(寛永寺ウェブサイト)
  • 1665年(寛文5年):毘沙門堂門跡、伽藍落慶(資料E)
  • 1666年(寛文6年)3月22日:羽黒山宝前院、湯殿山本道寺などと争論。幕府、湯殿山を真言宗と決す。(資料G03)
  • 1666年(寛文6年):この年、岡山藩、水戸藩、会津藩相次いで、寺院整理、神社合併を行う。(資料B1)
  • 1666年(寛文6年):長野善光寺、再建(資料C1)
  • 1667年(寛文7年):岡山藩天台宗金山寺、寛永寺を通じて岡山藩に破却寺の復活をせまる(資料C1)
  • 1667年(寛文7年):方広寺大仏木像完成(資料C1)
  • 1668年(寛文8年)1月29日:日光大火(資料C1)
  • 1668年(寛文8年)4月:羽黒山別当天宥、伊豆配流。(『出羽三山史』)
  • 1668年(寛文8年):西来寺転属事件。真廓、西教寺末の西来寺を寛永寺末とすることを企て、7年間西教寺に不参を続けたが、騒動となり引退。真廓を歴代から除外。(『天台宗真盛派年表』)
  • 1670年(寛文10年)2月:四天王寺、聖徳太子1500回忌法会(資料C1)
  • 1671年(寛文11年):幕府、宗旨人別帳を作成させる。(『岩波仏教辞典 第二版』)

戒律復興運動の波紋

  • 1672年(寛文12年)3月3日:妙立、自誓受戒。中国の知礼の教えを取り入れるとともに、最澄の大乗戒を否定して古代からの四分律の自戒を主張。天台律宗安楽派他の天台宗僧からの批難が相次ぐ。安楽騒動の始まり。(資料L)
  • 1676年(延宝4年)6月:羽黒山伏に法度(資料C1)
  • 1676年(延宝4年):中尊寺に法度(資料E)
  • 1676年(延宝4年):聖護院、現在地に移転。(資料E)
  • 1677年(延宝5年)4月6日:浅草寺焼失(資料C1)
  • 1678年(延宝6年)1月:輪王寺宮守澄法親王、妙立を追放。妙立は各地からの招請を受けて巡歴する。その直前、霊空光謙が妙立のもとで受戒。(資料L)
  • 1678年(延宝6年):延暦寺戒壇院復興(『別冊太陽 比叡山』年表)
  • 1680年(延宝8年)5月26日:徳川家綱、寛永寺に埋葬(資料C1)
  • 1680年(延宝8年):中尊寺住職は仙岳院の兼務とする。(中尊寺ウェブサイト)
  • 1682年(天和2年)1月27日:江戸真盛寺、類焼。6月に一部再建するが12月に再び火災。翌年2月、谷中に移転。(『天台宗真盛派年表』)
  • 1684年(貞享1年)7月:幕府、日吉大社社家7人を遠島とする(資料K)
  • 1684年(貞享1年)7月:出家・山伏・行人・願人の江戸徘徊を禁止(資料C1)
  • 1685年(貞享2年)8月6日:幕府、江戸浅草寺別当忠運が輪王寺宮天真法親王と本末を争ったのを罰し、浅草寺別当および紅葉山別当を解く。(資料G03)
  • 1685年(貞享2年)10月:修験道諸法度。(資料C1)
  • 1685年(貞享2年):西教寺、天台律宗を称することを命じられる。(資料J)
  • 1685年(貞享2年)8月26日:西教寺、寛永寺末となる。輪王寺宮、「西教寺掟七カ条」を制定。引接寺、西来寺、西蓮寺を末頭として門主の任命とする。末頭以外の紋白縹帽子着用を禁止。(『天台宗真盛派年表』)
  • 1686年(貞享3年):園城寺如意輪堂(西国霊場)、焼失。翌々年再建(現在の堂宇)。(資料W01)
  • 1687年(貞享4年):生類憐れみの令発布。以後たびたび出される。(資料B1)
  • 1688年(元禄1年)12月:江戸真盛寺、三井高利の支援で谷中から本所に移転。(『天台宗真盛派年表』)
  • 1689年(元禄2年)2月:四天王寺、聖徳太子開帳(資料C1)
  • 1689年(元禄2年):円空、園城寺長吏尊栄から血脈を受ける(資料W01)
  • 1690年(元禄3年)7月3日:天台律宗安楽派開祖妙立、聖護院村の草庵で死去。(資料L)
  • 1692年(元禄5年)5月:幕府、新寺創建を禁止。(資料B1)
  • 1692年(元禄5年)11月2日:幕府、多武峰三条を青蓮院門跡・多武峰寺学頭に下す(資料G03)
  • 1693年(元禄6年):天台座主輪王寺宮公弁親王、令旨を発し、延暦寺安楽院を律院(安楽律院)とし、妙立の法嗣の霊空光謙を入寺させる。同年、徳川綱吉、田100石を寄進。(資料L)
  • 1694年(元禄7年)6月29日:真正極楽寺で善光寺如来開帳(資料C1)
  • 1696年(元禄9年)3月2日:幕府、英彦山を本山派と主張する聖護院の訴えを退ける。(資料G03)
  • 1697年(元禄10年)8月:寛永寺根本中堂建立。(資料B1)
  • 1697年(元禄10年):幕府、延暦寺に安楽律院領100石を加増。延暦寺領は合計6350石となる。(資料D)
  • 1697年(元禄10年)7月9日:寛永寺根本中堂建立のため柳沢吉保を奉行とする(資料C1)
  • 1698年(元禄11年)11月:日蓮宗感応寺、天台宗天王寺となる。(資料B1)
  • 1698年(元禄11年)8月11日:寛永寺根本中堂建立。本尊薬師如来は近江石津寺より最澄刻の像を遷座。延暦寺根本中堂より不滅の法灯を遷す。また日光月光菩薩・十二神将は立石寺より円仁刻の像を遷す。(資料C1、資料L)
  • 1698年(元禄11年)9月3日:徳川綱吉、寛永寺根本中堂建立に際し300石寄進。(資料C1)
  • 1698年(元禄11年)9月3日:江戸大火。勅額火事。寛永寺全焼。(資料C1)
  • 1698年(元禄11年)11月12日:日蓮宗悲田派を遠流。碑文谷法華寺・谷中感応寺は天台宗になる(資料C1)
  • 1698年(元禄11年):徳川綱吉、梶井門跡(三千院)に京都河原町御車小路に土地を与え本坊とする。(三千院ウェブサイト)
  • 1699年(元禄12年)2月:寛永寺本坊再建。(資料B1)
  • 1699年(元禄12年):安楽律院の霊空光謙、「開山堂侍真条制」を定める。浄土院の侍真を復興。(資料B1)
  • 1699年(元禄12年)4月:元禄の修陵。(資料B1)
  • 1699年(元禄12年)2月13日:寛永寺本坊再建(資料C1)
  • 1700年(元禄13年)9月:日光神領、3800石余を加増。(資料B1)
  • 1700年(元禄13年)9月1日:日光神領に河内郡3801石加増(資料C1)
  • 1701年(元禄14年)8月:善光寺、谷中天王寺で出開帳。(資料B1)
  • 1701年(元禄14年)3月:真正極楽寺、江戸開帳。(資料C1)
  • 1701年(元禄14年)8月9日:善光寺、感応寺で開帳。その後、江戸城へ。(資料C1)
  • 1701年(元禄14年):西蓮寺、真盛墓所に拝所建立。(『天台宗真盛派年表』)
  • 1702年(元禄15年)2月:菅原道真、800年忌。北野天満宮万燈会(資料C1)
  • 1703年(元禄16年)11月27日:天変地異で伊勢神宮、京都21社、日枝神社?などに祈祷(資料C1)
  • 1703年(元禄16年):日光奉行設置(『ブリタニカ国際大百科事典』)
  • 1704年(宝永1年)4月11日:昨年の江戸類焼の自社に寄進(資料C1)
  • 1704年(宝永1年):浅草十王堂に銀300枚。(資料C1)
  • 1705年(宝永2年):伊勢おかげ参り(資料C1)
  • 1707年(宝永4年):善光寺本堂再建。2万5000両はで開帳(資料C1)
  • 1708年(宝永5年):義瑞、勝蓮社を組織。(資料W01)
  • 1708年(宝永5年):各宗本山に本末帳提出を命じる。(資料B1)
  • 1709年(宝永6年)1月10日:増上寺、徳川綱吉の葬儀の執行を要求(資料C1)
  • 1709年(宝永6年)1月22日:綱吉を寛永寺に埋葬(資料C1)
  • 1709年(宝永6年)3月9日:寛永寺諸院焼失(資料C1)
  • 1715年(正徳5年)4月7日:東照宮100年忌(資料C1)
  • 1719年(享保4年)3月~5月:浅草寺開帳(資料C1)
  • 1720年(享保5年)9月:『日光山縁起』5巻成立。(資料K)
  • 1720年(享保5年)3月27日:江戸大火。寛永寺の徳川家光廟やける(資料C1)
  • 1720年(享保5年)8月3日:幕府、霊廟新造を禁止(資料C1)
  • 1721年(享保6年)8月12日:公寛法親王、寛永寺本坊修理に際し華美を戒める。(資料C1)
  • 1722年(享保7年)3月18日:浅草寺開帳(資料C1)
  • 1722年(享保7年)6月10日:寛永寺本坊修理完成(資料C1)
  • 1722年(享保7年)7月:諸宗僧侶法度(資料C1)
  • 1723年(享保8年):義瑞、園城寺法明院を創建。寺門派の戒律復興運動の拠点。(資料D)
  • 1723年(享保8年)4月:熊野三山の勧進を許可。(資料B1)
  • 1723年(享保8年):霊空、寛永寺浄名院を律院(浄名律院)とする。(資料L)
  • 1723年(享保8年):幕府、宗門人別帳を6年毎に作成することとする。(『岩波仏教辞典 第二版』)
  • 1728年(享保13年)4月:徳川吉宗、将軍として65年ぶりに日光社参。(資料K)
  • 1728年(享保13年)3月3日:幕府、日光東照宮参拝の大名献上品を制定(資料C1)
  • 1728年(享保13年)4月17日:徳川吉宗、日光東照宮と大猷院廟に参詣(資料C1)
  • 1729年(享保14年):霊空、日光興雲院を律院(興雲律院)とする。(『日光天台史』)
  • 1729年(享保14年):霊元法皇、彦山に英彦山の号を下賜。(英彦山神宮ウェブサイト)
  • 1731年(享保16年)3月15日:西教寺、本堂再建着工。(『天台宗真盛派年表』)
  • 1732年(享保17年)6月:奈良興福寺再建のため、浅草寺で富突興行許可。(資料B1)
  • 1732年(享保17年)10月28日:蝗災平穏のため、日光東照宮などの祈祷を命じる(資料C1)
  • 1732年(享保17年):享保の大飢饉。(資料C1)
  • 1733年(享保18年)5月25日:徳川家重、懐妊祈願のため寛永寺に銀百枚。山王権現・護持院銀30枚。伊勢神宮両宮金3枚寄進。(資料C1)
  • 1734年(享保19年)1月26日:日光奉行、2000石、官料500俵(資料C1)
  • 1737年(元文2年)3月16日:浅草寺開帳(資料C1)
  • 1737年(元文2年)5月3日:江戸大火。寛永寺本坊焼失(資料C1)
  • 1737年(元文2年)12月21日:本坊竣工(資料C1)
  • 1738年(元文3年):輪王寺宮公遵法親王、安楽派の主張を認め、一紀住山の制度を定める。(資料L)
  • 1739年(元文4年)10月4日:霊空、死去。(資料L)
  • 1739年(元文4年)9月:西教寺本堂竣工。(『天台宗真盛派年表』)
  • 1740年(元文5年):善光寺回向院で出開帳。(資料B1)
  • 1740年(元文5年):西本願寺・寛永寺末寺帳不足分13冊を提出(資料C1)
  • 1740年(元文5年):善光寺(大勧進大本願とも)、輪王寺宮支配となる。(資料E)
  • 1744年(延享1年)2月30日:西教寺、真盛250回忌。(『天台宗真盛派年表』)
  • 1745年(延享2年)3月:徳川吉宗、紅葉山東照宮で法華八講を行う。(資料B1)
  • 1745年(延享2年)7月:幕府、諸宗本山に末寺帳提出を命じる。(資料B1)
  • 1752年(宝暦2年):公啓法親王、輪王寺宮に就任。真流円耳、法親王に請願し、安楽派を批判。(資料L)
  • 1758年(宝暦8年)7月23日:宝暦事件(資料K)
  • 1759年(宝暦9年):公啓法親王、安楽派を廃し、真流円耳を安楽院住職に任命。安楽派、幕府に訴えるが、教義のこととして取り合わず。(資料L)
  • 1761年(宝暦11年)9月:西教寺塔頭寺院で違乱。京都にいた輪王寺宮が三末頭を呼び出し、塔頭住職を隠居させ西教寺を三末頭の管理とする。(『天台宗真盛派年表』)
  • 1765年(明和2年)10月16日:幕府、安楽派を追放。(資料L)
  • 1767年(明和4年)8月22日:明和事件(資料K)
  • 1772年(安永1年)2月:寛永寺焼失。(資料B1)
  • 1772年(安永1年):公啓法親王薨去。公遵法親王、輪王寺宮に再任。幕府、一転して安楽律院の制度を復旧。(資料L)
  • 1772年(安永1年)10月22日:幕府、寛永寺学頭凌雲院義順と院家覚王院慈秀を追放(資料G03)
  • 1773年(安永2年)1月:幕府、真流円耳を天台宗外に追放。安楽派を復帰させる。(資料L)
  • 1776年(安永5年)12月:幕府、宗門改帳を宗派ごとに編纂。(資料B1)
  • 1781年(天明1年)3月18日:三社祭再興。しかし、再び中絶。(資料K)
  • 1783年(天明3年)9月:良源800回忌。(資料B1)
  • 1785年(天明5年)8月:幕府、青蓮院の盲僧支配を許可。(資料B1)
  • 1788年:御所火災につき、後桜町上皇青蓮院門跡に避難。粟田御所と呼ばれる。()
  • 1790年(寛政2年)5月24日:寛政異学の禁(資料K)
  • 1790年(寛政2年):西教寺、勧学寮設置の許可を輪王寺宮から得る。5,6年後竣工。(『天台宗真盛派年表』)
  • 1794年(寛政6年)2月29日:西教寺、真盛300回忌。(『天台宗真盛派年表』)
  • 1799年(寛政11年)1月25日:役小角1100年遠忌。神変大菩薩号授与(資料K)
  • 1800年(寛政12年)12月:四天王寺焼失。(資料B1)(資料Eでは翌年に焼失とある。)
  • 1802年(享和2年)2月:北野天満宮900年祭勅会。(『公卿補任』資料K)
  • 1804年(文化1年)4月~5月:蝦夷地に天台宗・浄土宗禅宗の寺院を創建。(資料B1)
  • 1805年(文化2年):桓武天皇1000年忌法要
  • 1810年(文化7年)3月:延暦寺、座主宣命使登山式を定める。(資料B1)
  • 1812年:淡路屋太郎左衛門、諸国勧進を行い、四天王寺再建。(資料E)
  • 1820年:羽黒山開山蜂子皇子に「照見大菩薩」号宣下。(『朝日日本歴史人物事典』)
  • 1828年(文政11年):慈本『一実神道記』成立(資料K)
  • 1829年(文政12年):輪王寺宮入洛。西教寺面会で帽子事件。(『天台宗真盛派年表』)
  • 1859年(安政6年)12月10日:西教寺24世真映、在職27日で死去。(『天台宗真盛派年表』)

近代:天皇の藩屏として

輪王寺宮を「東武皇帝」に幕軍推戴、神仏分離・修験道廃止と神仏合同布教、そして天台三派成立

  • 1840年(天保11年):<中国>アヘン戦争。(資料B1)
  • 1841年(天保12年)閏1月30日:徳川家斉を寛永寺に埋葬(資料B1)
  • 1841年(天保12年)3月28日:浅草寺開帳(資料B1)
  • 1843年(天保14年)1月:寛永寺・増上寺、水戸藩梵鐘徴収を批判(資料B1)
  • 1843年(天保14年)4月:徳川家慶、日光社参(資料B1)
  • 1847年(弘化4年)3月:善光寺開帳(資料B1)
  • 1849年(嘉永2年):亀戸天神社境内法性坊開帳(資料B1)
  • 1850年(嘉永3年):延暦寺で異国降伏祈祷。(資料B1)
  • 1852年(嘉永5年)3月:目黒不動瀧泉寺開帳(資料B1)
  • 1853年(嘉永6年)6月:ペリー来航。(資料B1)
  • 1854年(安政1年)3月3日:日米和親条約(資料B1)
  • 1854年(安政1年)4月6日:御所炎上、孝明天皇聖護院門跡に行幸し、仮御所とする。(資料W02)
  • 1857年(安政4年)11月25日:勅により園城寺で祈祷。(資料W02)
  • 1858年(安政5年)2月:幕府、寛永寺執当を日光東照宮に派遣し、条約締結について神慮を伺う。(『松平忠固日記』資料K)
  • 1858年(安政5年)6月19日:幕府、日米修好通商条約に調印。9月7日から安政の大獄始まる。(資料K)
  • 1858年(安政5年)8月8日:徳川家定を寛永寺に埋葬(資料B1)
  • 1859年(安政6年)10月21日:金光教開教。(資料B1)
  • 1863年(文久3年)3月:英彦山尊皇派弾圧事件英彦山、山口藩に加勢。小倉藩はこれを察知し、多くの山伏が処刑される。(資料H)
  • 1863年(文久3年)3月:孝明天皇、攘夷祈願のため延暦寺行幸(資料B1)
  • 1863年(文久3年)5月10日:下関砲撃事件始まる。7月2日には薩英戦争(資料K)
  • 1864年(元治1年)7月:禁門の変で京都大火。(資料B1)
  • 1865年(慶応1年)4月:日光東照宮で徳川家康250回忌。(資料B1)
  • 1867年(慶応3年)5月:寛永寺焼失。(資料B1)
  • 1867年(慶応3年)11月2日:浅草寺、再建遷座法要(資料B1)
  • 1867年(慶応3年):法親王を還俗させる。(資料K)
  • 1868年(明治1年)1月:戊辰戦争開戦。(資料B1)
  • 1868年(明治1年)1月7日:聖護院宮雄仁親王、還俗して嘉言親王を称す。9日、園城寺長吏を廃し園城寺別当とし、修験宗を管領。(資料W02)
  • 1868年(明治1年)1月:延暦寺、新政府に金と米を献納。(資料C1)
  • 1868年(明治1年)2月:徳川慶喜、寛永寺に閑居。(資料B1)
  • 1868年(明治1年)3月17日:政府、社僧を還俗させる。(資料B1)
  • 1868年(明治1年)3月28日:神仏判然令。(資料B1)
  • 1868年(明治1年)4月1日:延暦寺が日吉大社の神仏分離を渋ったため、神職と地元住民は本殿に乱入して仏具の撤去を強行。5日になってようやく天台座主は日吉大社に本殿を鍵を引き渡した。(資料D)
  • 1868年(明治1年)6月13日:政府、金峰山寺蔵王権現の神号呼称と僧侶還俗を命令。吉野の神仏分離の始まり。(資料H)
  • 1868年(明治1年)6月16日:奥羽列藩同盟結成。輪王寺宮公現法親王が盟主となる。一説には「東武皇帝」を称したという。()
  • 1868年(明治1年)8月10日:嘉言親王、園城寺別当を辞任。1月15日に還俗した照高院宮智成親王が園城寺別当となる。(資料B1)
  • 1868年(明治1年)9月8日:明治改元。一世一元制を採用。(資料C1)
  • 1868年(明治1年)12月8日:仏教各宗の代表者、京都興正寺に集まり、護法・邪教排斥・宗派の旧弊一洗・学校経営・人材育成のため諸宗同徳会盟を結成(大教院設立へ)。(資料C1)
  • 1869年(明治2年)1月:円満院門跡、大津県庁となる。明治20年に返還される。(資料B1)
  • 1869年(明治2年)3月20日:仏教各宗、連合して耶蘇教禁制を政府に建白。5月4日にも再度建白。(資料C1)
  • 1869年(明治2年)3月28日:東京遷都(資料C1)
  • 1869年(明治2年)4月:諸宗同徳会盟、東京増上寺で会合(資料C1)
  • 1869年(明治2年)5月18日:この頃、羽黒山で神仏分離が始まる。(資料H)
  • 1869年(明治2年)12月:政府、妙法院門主、青蓮院門主、梶井(三千院)門主に天台宗管領を命じる。(資料G01)
  • 1870年(明治3年)1月:大教宣布の詔。(資料B1)
  • 1870年(明治3年)3月28日:政府、寛永寺と満願寺(現・輪王寺)を本山から外し、延暦寺のみを本山として、天台宗を管轄させる。(資料G01)
  • 1870年(明治3年)5月21日:東京府、仏教諸宗に教理と僧侶構成について四箇条の尋問書を送る。同月、政府、仏教諸宗に「宗門大意」を著すように命ずる。(資料C1)
  • 1870年(明治3年)6月29日:政府、修験は全て仏徒とみなす見解を示す。(資料H)
  • 1870年(明治3年)7月28日:太政官、民部省に府県管内寺院の本末帳の提出を求める。(資料C1)
  • 1870年(明治3年)8月19日:大蔵省戸籍寮に社寺課を設置。神祇省直轄以外の社寺を管轄する。(資料C1)
  • 1870年(明治3年)閏10月20日:民部省社寺掛を寺院寮と改称。(資料C1)
  • 1870年(明治3年):聖護院、「本山修験宗派法則」制定。(資料H)
  • 1871年(明治4年)1月5日:寺社領上知令(資料A1)。2月4日、園城寺は現境内以外を上地(資料W02)。
  • 1871年(明治4年)5月:門跡、院家などの称を廃止。(資料C1)
  • 1871年(明治4年)7月27日:民部省、寺院寮を廃止して大蔵省に移管。8月19日大蔵省戸籍寮に社寺課を設置。神祇省直轄以外の社寺を管轄する。(資料C1)
  • 1871年(明治4年)9月:浄土真宗の島地黙雷、政府に教部省設置を建議。(資料C1)
  • 1871年(明治4年)10月3日:宗門人別帳、寺請制度廃止(資料A1)。
  • 1871年(明治4年):住職進退を府県の管轄とする(資料F)
  • 1871年(明治4年):勅願所、勅修法会を廃止(資料F)。
  • 1871年(明治4年)11月:延暦寺執行代、西教寺を延暦寺別院だと届け、西教寺内紛起こる。(『天台宗真盛派年表』)
  • 1871年(明治4年):梶井門跡、京都の本坊を廃止し、大原政所を本坊とし、三千院と称す。(三千院ウェブサイト)
  • 1872年(明治5年)3月14日:教部省設置。4月25日教導職設置。28日、三条教則発布。(資料A1)
  • 1872年(明治5年)3月27日:社寺の女人禁制を廃止。(資料A1)
  • 1872年(明治5年)6月9日:教部省、各宗に教導職管長一名を置くように命ずる。(資料C1)
  • 1872年(明治5年)8月3日:園城寺山科祐玉、天台宗(合同天台宗・第一次)管長に就任。(資料W02)
  • 1872年(明治5年)9月15日:修験道を廃止し、既存の寺院は真言宗か天台宗への所属を命じる。 (資料A1)
  • 1872年(明治5年)10月3日:政府、天台宗に管長を設置。教部省番外で仏教7宗(天台宗、真言宗、浄土宗禅宗真宗日蓮宗時宗)に同時に設置された一つ。(資料G02)
  • 1872年(明治5年)10月25日:教部省を文部省に合併。(資料C1)
  • 1872年(明治5年)11月24日:神道仏教合同で半官半民の教育研究機関大教院設置。(資料A1)
  • 1872年(明治5年)12月3日:太陽暦を採用し、この日を明治6年(1873)1月1日とする。(資料A1)
  • 1872年(明治5年):僧位僧官を廃止。(資料F)
  • 1872年(明治5年):僧侶に苗字を名乗らせる(資料F)
  • 1872年(明治5年):園城寺、政所廃止。宝寿院を法務所とする。(資料D)
  • 1873年(明治6年)1月8日:仮大教院で開院式。6月1日、増上寺本堂が大教院神殿となり、開院式。(資料C1)
  • 1873年(明治6年)1月19日:政府、僧侶の位階を廃止。(資料C1)
  • 1873年(明治6年)3月:教部省、出羽神社宮司に西川須賀雄を任命。以降、出羽三山の神仏分離が本格化。(資料H)
  • 1873年(明治6年):園城寺、北院の境内地を陸軍歩兵第九連隊駐屯地として上知。(資料D)
  • 1874年(明治7年)2月9日:教導職管長を各派に置くと通達。(資料C1)
  • 1874年(明治7年)2月12日:融通念仏宗、独立。(資料A1)
  • 1874年(明治7年)4月9日:西教寺真朗、合同天台宗から別派管長認可を滋賀県に申請。(『天台宗真盛派年表』)
  • 1874年(明治7年)5月19日:天台宗寺門派、合同天台宗から独立。管長設置許可。23日、東京府芝に天台寺門宗務局を設置。(資料W02)
  • 1874年(明治7年):奈良県庁、金峰山寺を廃止し、金峰神社を創建。現在の金峰神社を本社とし、現在の金峰山寺蔵王堂を口の宮、現在の大峰山寺を奥宮とした。(資料H)
  • 1875年(明治8年)1月29日:大教院から浄土真宗が離脱。5月3日大教院解散。(資料A1)
  • 1875年(明治8年)4月:西教寺、良源900回忌。(『天台宗真盛派年表』)
  • 1875年(明治8年)7月12日:政府、元青蓮院配下の盲僧を天台宗管長の管轄とする。8月24日、盲僧が養子を取ること、他人に伝承することを禁止する。(資料G01)
  • 1875年(明治8年)9月17日:天台宗寺門派大教院を設置。開莚式。(資料W02)
  • 1875年(明治8年)9月30日:園城寺、別当を廃して住職設置。園城寺住職を貫主と呼称。(資料W02)
  • 1875年(明治8年)11月27日:教部省、信教の自由を通達。(資料C1)
  • 1876年(明治9年)1月:園城寺、南院北院中院による三院制を廃止し、一院制とする。(資料W01)
  • 1876年(明治9年)10月2日:赤松光映管長、西教寺末寺西来寺での巡教で「真盛は未熟」と発言し騒動となる。以後、西教寺の独立の機運が高まる。(資料J)(『天台宗真盛派年表』)
  • 1876年(明治9年)11月5日:西教寺末の今井真達ら別派独立を誓約する。(『天台宗真盛派年表』)
  • 1877年(明治10年)1月19日:教部省廃止。内務省に社寺局設置。(資料A1)
  • 1877年(明治10年)2月:西南戦争。9月まで。(資料B1)
  • 1877年(明治10年)5月頃:西教寺東京出張所を真盛寺から牛込正蔵院に移転。(『天台宗真盛派年表』)
  • 1877年(明治10年)6月15日:近江国大津陸軍兵営内(園城寺旧境内)の「亀丘」を「弘文天皇長等山前陵」に治定した(明治天皇紀)。
  • 1877年(明治10年)7月15日:西教寺代表、天台宗管長代理唯我韶舜と真盛派独立を締結。(『天台宗真盛派年表』)
  • 1877年(明治10年)12月5日:西教寺真朗、上京して大教院(天台宗大教院?)に口上書提出。28日に内務省に請願。(『天台宗真盛派年表』)
  • 1878年(明治11年)5月6日:天台宗真盛派、公認。管長設置。内務省戊第5号達。(資料G02)。管長を勅任官取扱とする。率渓考恭(真朗)が初代管長となる。(『天台宗真盛派年表』)
  • 1878年(明治11年):善光寺大本願、天台宗支配を抜け、浄土宗知恩院末となる。(資料E)
  • 1879年(明治12年)5月1日:西教寺で天台宗真盛派大教院の開院式。(『天台宗真盛派年表』)
  • 1879年(明治12年)12月15日:天台宗寺門派管長を園城寺住職の充て職とし、園城寺住職は聖護院門跡円満院門跡実相院門跡の住職の輪番とする。(資料W02)
  • 1880年(明治13年)10月29日:天台宗真盛派、西教寺で初めて通常議会を開催。(『天台宗真盛派年表』)

近代教団の形成

  • 1881年(明治14年)2月23日:神道界の祭神論争決着。以後、神社を「非宗教」とするとともに限定的な政教分離の方針が定まっていく。同時に宗教教団として教派神道の形成が進む。(資料C1)
  • 1881年(明治14年)11月22日:天台宗寺門派、末寺平等院について浄土宗と「平等院事務章程」の協定を結ぶ。(資料B1)
  • 1881年(明治14年):日光輪王寺三仏堂を日光二荒山神社の横から現在地に移築。日光山の神仏分離が一段落。(資料E)
  • 1882年(明治15年)1月24日:神官教導職分離。5月15日教派神道各派独立。(資料A1)
  • 1882年(明治15年)4月:内務省、寛永寺などに営繕費を下付。(資料C1)
  • 1882年(明治15年):園城寺旧鎮守新宮大明神、長等神社と改称する。(資料D)
  • 1883年(明治16年)3月8日:西教寺住職大教正率渓考恭が政府に真盛に大師号下賜を請願。(資料G04)
  • 1883年(明治16年)6月26日:真盛に「慈摂大師」号宣下。(『天台宗真盛派年表』)
  • 1883年(明治16年):日光の満願寺を輪王寺と改称。(資料F)
  • 1883年(明治16年):天台宗真盛派管長率渓考恭、辞意を発表。以後、何度か続く。(『天台宗真盛派年表』)
  • 1884年(明治17年)8月11日:教導職廃止。 (資料A1)
  • 1884年(明治17年)9月6日:天台宗寺門派、管長の呼称を長吏とする。(資料W02)
  • 1884年(明治17年):天台座主の公称許可。(資料F)
  • 1885年(明治18年)3月:政府、仏教各宗に宗制寺法の制定を命じる。(資料C1)
  • 1885年(明治18年)3月29日:旧門跡寺院の門跡の私称を許可。(資料C1)
  • 1885年(明治18年)6月:琵琶湖疏水着工。(京都市ウェブサイト)
  • 1885年(明治18年)9月:アメリカ人フェノロサとビゲロー、天台宗に帰依し、法明院敬徳から受戒。(資料W01)
  • 1885年(明治18年)4月28日:天台宗真盛派、宗制寺法を出願。6月15日認可。(『天台宗真盛派年表』)
  • 1885年(明治18年):日光輪王寺を別院とする。(資料F)
  • 1885年(明治18年):天台宗大学(のちの大正大学)、設立。(資料W03)
  • 1886年(明治19年)1月16日:内務省社寺局に神祇課と寺院課を設置。(資料C1)
  • 1886年(明治19年)9月:聖護院、深仙灌頂会を勤修。37年ぶり。以後、大規模な峰入りが盛んに行われる。(資料H)
  • 1888年(明治21年):吉野喜蔵院、明治に廃絶となっていたが聖護院末として復興。(資料H)
  • 1889年(明治22年)2月11日:大日本帝国憲法公布。信教の自由を認める。神官僧侶の被選挙権は認めず。(資料C1)
  • 1889年(明治22年)6月12日:仏教各宗の代表者36人、築地本願寺に集まり、各宗協会を設置。(資料C1)
  • 1889年(明治22年):熊野川水害で熊野本宮大社大破。()
  • 1890年(明治23年)10月27日:園城寺、円珍1000年遠忌執行。(資料B1)
  • 1890年(明治23年)10月30日:政府、教育勅語発布。(資料A1)
  • 1891年(明治24年)1月9日:内村鑑三教育勅語不敬事件。(資料A1)
  • 1891年(明治24年):鞍馬寺、山門焼失。(資料F)
  • 1891年(明治24年):熊野本宮大社、現在地に再建。()
  • 1894年(明治27年)8月1日:日清戦争開戦。翌年4月まで。(資料A1)
  • 1894年(明治27年)9月:琵琶湖疏水の第一疎水竣工(京都市ウェブサイト)。
  • 1895年(明治28年):神仏各教派宗派に教師検定条規標準の制定を命じる。(資料F)
  • 1896年(明治29年)10月:園城寺、智顗1300年遠忌執行。(資料B1)
  • 1897年(明治30年)6月10日:古社寺保存法。(資料A1)
  • 1899年(明治32年)5月:宗教法案の議論本格化。石川俊台『宗教法私見』を著す。(資料C1)
  • 1899年(明治32年)5月11日:園城寺、役小角1200年遠忌法要執行。翌日から聖護院の遠忌記念の峰入りが始まり、園城寺を5000人規模で出発(6月1日成満)。以後、聖護院峰入りは毎年の恒例となり、明治初年の廃止命令で大打撃を受けた修験道の復興が一段落。(資料H)
  • 1900年(明治33年)2月17日:貴族院、宗教法案を否決。(資料C1)
  • 1900年(明治33年)4月27日:内務省社寺局、神社局と宗教局に分離。 (資料A1)
  • 1900年(明治33年)6月5日:帝国仏教会を日本大菩提会と改称。(資料C1)
  • 1900年(明治33年)7月:シャム国王寄贈の仏骨が日本に到着。仮に妙法院に奉安される。(資料F)
  • 1901年(明治34年):延暦寺無動寺で創建1000年記念法要。(資料H)
  • 1903年(明治36年):叡南覚忍、千日回峰行を行満。比叡山修験の復興。(資料H)
  • 1904年(明治37年)2月10日:日露戦争開戦。翌年9月まで。(資料A1)
  • 1904年(明治37年)3月29日:天台宗大学(のちの大正大学)、専門学校令により認可。(資料C1)
  • 1904年(明治37年):シャム国王寄贈の仏骨を奉安した日暹寺(日泰寺)創建。(資料F)
  • 1904年(明治37年):日本宗教家大会、東京芝の忠魂祠堂会館で開催。(資料F)
  • 1908年(明治41年)11月25日:天台宗寺門派、初の宗議会を開会。(資料W02)
  • 1910年(明治43年)6月:従来は、本山派当山派の協同支配であった洞川龍泉寺が三宝院末となる。(資料H)
  • 1910年(明治43年)8月:韓国併合。(資料B1)
  • 1910年(明治43年)8月:浅草寺、救護所を開設。(資料C1)
  • 1912年(明治45年・大正1年)3月:琵琶湖疏水、第二疎水竣工。(京都市ウェブサイト)
  • 1913年(大正2年)6月13日:内務省宗教局を文部省に移管。(資料A1)
  • 1915年(大正4年)3月15日:改正天台宗憲章、施行(1918『現行天台宗制規類纂』)
  • 1915年(大正4年):寛永寺で徳川家康300年忌(資料F)。
  • 1919年(大正8年):高楠順次郎、姉崎正治、前田恵雲、村上専精、沢柳政太郎らが仏教連合大学創設を提唱。(資料W03)
  • 1921年(大正10年):延暦寺、最澄1100年忌を執行(資料F)。
  • 1921年(大正10年):延暦寺、明治初年に途絶えた御修法を復興。(資料B1)
  • 1923年(大正12年)9月:関東大震災。(資料B1)
  • 1923年(大正12年):横川根本如法塔跡から1031年(長元4年)に覚超が埋納した経典が発掘される(『別冊太陽 比叡山』年表)
  • 1924年(大正13年)4月:『大正新脩大蔵経』刊行開始(資料F)。
  • 1925年(大正14年):仏教連合大学(のちの大正大学)に天台宗大学、真言宗の豊山大学、浄土宗の宗教大学が合併。(資料W03)
  • 1925年(大正14年):延暦寺横川の根本如法堂跡地に根本如法塔建立。(資料D)
  • 1925年(大正14年)8月3日:小倉霊現、念法真教を創始。(教団ウェブサイト)
  • 1926年(大正15年・昭和1年):大学令による大正大学設立。(資料W03)
  • 1927年(昭和2年)1月1日:修験道事務局を大本山聖護院門跡に開設。(資料W02)
  • 1928年(昭和3年):昭和天皇即位に際し、延暦寺書院を造営。(資料D)
  • 1929年(昭和4年)3月28日:国宝保存法公布(資料A1)
  • 1931年(昭和6年)9月:柳条湖事件。(資料B1)
  • 1934年(昭和9年)9月21日:台風により園城寺被害甚大。新羅明神社本地堂倒壊。(資料W02)
  • 1935年(昭和10年)4月:『天台宗全書』刊行開始。翌年12月まで。(資料B1)
  • 1935年(昭和10年)4月:岡野正道、孝道教団を創始。(資料B1)
  • 1935年(昭和10年):「慈摂大師」の勅額を西教寺に下賜。(資料J)
  • 1937年(昭和12年)4月:比叡山開創1150年記念法要(資料B1)
  • 1937年(昭和12年)7月7日:日中戦争始まる。政府、宗教団体などに挙国一致を要請。(資料A1)
  • 1937年(昭和12年):延暦寺、東塔阿弥陀堂建立。(資料D)
  • 1937年(昭和12年):延暦寺、山王礼拝講、復興(『別冊太陽 比叡山』年表)

宗教団体法時代

  • 1939年(昭和14年)4月8日:宗教団体法公布。(資料A1)
  • 1939年(昭和14年)10月:金峰山寺後醍醐天皇600年御忌執行。香華料として金100円下賜。(公文書)
  • 1939年(昭和14年):念法真教、「天台宗金剛教会」と称し、金峰山寺に所属。(教団ウェブサイト)
  • 1940年(昭和15年)4月1日:宗教団体法施行。(資料B1)
  • 1940年(昭和15年)4月:園城寺、円珍1050年大遠忌執行。(資料W02)
  • 1941年(昭和16年)3月31日:文部省、天台宗(天台宗延暦寺派)・天台宗寺門派・天台宗真盛派が合併して「天台宗」(合併天台宗)と称することを認可(文部省告示第514号、4月12日)。修験道では、当初、金峰山寺と聖護院がともに大本山とされたが、聖護院がこれに反発し、聖護院を大本山、金峰山寺を修験道別格本山とすることで解決した。山頂の蔵王権現堂が大峰山寺となり天台宗・真言宗の両属となった。
  • 1941年(昭和16年)12月:日米戦争開戦。(資料B1)
  • 1942年(昭和17年):落雷で横川中堂焼失。(資料D)
  • 1942年(昭和17年):中尊寺管轄下にあったイタコ教団が天台宗から独立して宗教結社「天台大和教」を結成。(原英子2013「イタコたちの現在」)(吉川良和「口寄せ語りの日蓮物について」では天台大和教の結成を1937年とするが、名称から考えると宗教結社としての設立なので、この年は統一団体設立への動きが始まった年か)
  • 1945年(昭和20年):大阪大空襲で四天王寺焼失。()

現代:民間団体へ、有力寺院が独立教団を設立

  • 1945年(昭和20年)8月15日:敗戦。(資料A1)
  • 1945年(昭和20年)12月15日:GHQ、神道指令を発令。(資料A1)
  • 1945年(昭和20年)12月28日:宗教団体法廃止。宗教法人令公布。(資料A1)
  • 1946年(昭和21年)3月1日:聖護院、合併天台宗より離脱し、修験宗を組織する。(資料H)
  • 1946年(昭和21年)3月30日:五流尊瀧院、合併天台宗から独立。「修験道」、設立登記。(資料H)
  • 1946年(昭和21年)3月:西教寺、合併天台宗から独立。天台真盛宗を組織する。(資料J)
  • 1946年(昭和21年)4月2日:園城寺、合併天台宗より独立。天台寺門宗設立(資料H)。(以後、延暦寺を総本山とする教団を天台宗延暦寺派と表記)
  • 1946年(昭和21年)6月7日:羽黒山修験本宗を設立。(資料H)
  • 1946年(昭和21年)10月:GHQ、第二次農地改革を実行。(資料H)
  • 1946年(昭和21年)12月10日:妙見宗を設立。(資料H)
  • 1947年(昭和22年)2月:園城寺本坊の円満院門跡が、園城寺と対立し、天台寺門宗から離脱。単立寺院となる。(資料W02)
  • 1947年(昭和22年)3月:念法真教、宗教法人「小倉山金剛寺」を設立し、天台宗から独立。(教団ウェブサイト)
  • 1947年(昭和22年)4月12日:社寺境内処分法制定。(資料H)
  • 1947年(昭和22年)5月10日:石中寺石土宗を設立。(資料H)
  • 1947年(昭和22年):鞍馬寺、鞍馬弘教を立教。(『週刊古寺を巡る17 鞍馬寺』)
  • 1948年(昭和23年)4月16日:東南院桜本坊らが「大峰修験道」(昭和27年に金峯山修験本宗と改称)(資料H)
  • 1949年(昭和24年)12月13日:鞍馬寺、天台宗延暦寺派を離脱して鞍馬弘教を設立。(資料H)
  • 1949年(昭和24年):安楽律院焼失。(資料D)
  • 1950年(昭和25年):朝鮮戦争。(資料B1)
  • 1950年(昭和25年)5月:園城寺、役小角1250年大遠忌を執行。(資料W02)
  • 1950年(昭和25年)5月30日:文化財保護法公布(資料A1)
  • 1951年(昭和26年)4月3日:宗教法人法公布(資料A1)
  • 1951年(昭和26年)9月:サンフランシスコ講和条約締結。(資料B1)
  • 1952年(昭和27年)9月9日:「宗教法人念法眞教」設立認証。()
  • 1952年(昭和27年):天台真盛宗宗憲・宗規制定。(資料J)
  • 1953年(昭和28年):イタコ教団(旧「天台大和教」)、宗教法人「大和宗」を設立。名称は既に昭和24年に改称していた。(原英子2013「イタコたちの現在」、吉川良和「口寄せ語りの日蓮物について」)
  • 1954年(昭和29年)6月25日:全日本仏教会設立。(資料A1)
  • 1956年(昭和31年):延暦寺大講堂焼失。(資料D)
  • 1957年(昭和32年)7月:谷中天王寺、五重塔焼失。(資料B1)
  • 1958年(昭和33年)4月:中尊寺、別格大寺に昇格。11月、延暦寺より「不滅の法灯」分灯(中尊寺ウェブサイト)
  • 1958年(昭和33年):比叡山ドライブウェイ開通(『別冊太陽 比叡山』年表)
  • 1961年(昭和36年)7月25日:世界宗教者平和会議、京都で開催。28日まで。(資料A1)
  • 1961年(昭和36年):修験宗の本山聖護院、修験宗から離脱。「本山修験宗」(非法人)を組織(『宗教法』創刊号)。
  • 1963年(昭和38年):延暦寺大講堂を旧日吉東照宮本地堂を移築して再建。(資料D)
  • 1966年(昭和41年):奥比叡ドライブウェイ開通(『別冊太陽 比叡山』年表)
  • 1967年(昭和42年):横川秘宝館開館(『別冊太陽 比叡山』年表)
  • 1969年(昭和44年)6月:「一隅を照らす運動」開始。(資料B1)
  • 1971年(昭和46年)4月:横川中堂再建。(資料D)
  • 1971年(昭和46年):最澄1150年遠忌(『別冊太陽 比叡山』年表)
  • 1975年(昭和50年)6月24日:昭和天皇、英彦山神社に神宮号宣下。英彦山神宮と称す。(資料B1)
  • 1977年(昭和52年):最澄得度1200年を機に法華総持院再建を企画。昭和55年、東塔竣工。59年灌頂堂竣工、61年寂光堂竣工。(資料D)
  • 1978年(昭和53年)3月:浅草寺秘仏示現1350年開扉。(資料B1)
  • 1982年(昭和57年):修験宗と本山修験宗が合併。宗教法人である修験宗の規則変更という形で実現する。本山修験宗と称す。(『宗教法』創刊号)
  • 1983年(昭和58年)4月:日吉大社の神輿、約400年ぶりに比叡山に登る。(資料B1)
  • 1983年(昭和58年)5月:日光東照宮輪王寺が和解。(資料B1)
  • 1985年(昭和60年)7月:京都で古都税紛争。(資料B1)
  • 1986年(昭和61年):法華総持院再建。(『別冊太陽 比叡山』年表)
  • 1987年(昭和62年):比叡山開創1200年慶讃法要(『別冊太陽 比叡山』年表)
  • 1987年(昭和62年)8月3日:比叡山宗教サミット始まる(資料A1)
  • 1988年(昭和63年):園城寺別所水観寺、現在地に移転。(資料W01)
  • 1990年(平成2年)10月:園城寺、円珍1100年遠忌法要を執行。11月まで。(資料W01)
  • 1992年(平成4年):天海350年大遠忌(『別冊太陽 比叡山』年表)
  • 1994年(平成6年):延暦寺平等院、世界文化遺産「古都京都の文化財」に登録。(資料A1)
  • 1998年(平成10年):延暦寺、智顗1400年大遠忌(『別冊太陽 比叡山』年表)
  • 1999年(平成11年):日光二荒山神社日光東照宮日光・輪王寺、世界文化遺産「日光の社寺」に登録。(「文化遺産オンライン」)
  • 2004年(平成16年):吉野の金峰山寺大峰山寺吉水神社(旧吉水院)・玉置神社(別当は天台宗高牟婁院)、熊野の熊野三山青岸渡寺補陀洛山寺、世界文化遺産「紀伊山地の霊場と参詣道」に登録。(「文化遺産オンライン」)
  • 2005年(平成17年):延暦寺、天台宗開宗1200年慶讃法要(『別冊太陽 比叡山』年表)
  • 2011年(平成23年):中尊寺毛越寺観自在王院跡・無量光院跡、世界文化遺産「平泉―仏国土(浄土)を表す建築・庭園及び考古学的遺跡群―」に登録。(「文化遺産オンライン」)
  • 2012年(平成24年)11月16日:天台寺門宗、円珍生誕1200年慶讃大法会記念の葛城二十八宿巡峰修行の第一期を実施。第二期は翌年、第三期は正当年の翌々年に実施。(資料W02)
  • 2014年(平成26年)9月15日:天台寺門宗、円珍生誕1200年慶讃大法会記念の葛城二十八宿巡峰修行、結願。(資料W02)
  • 2014年(平成26年)10月28日:天台寺門宗、円珍生誕1200年慶讃大法会大法要を執行。11月3日まで。10月18日開闢、11月24日結願。(資料W02)


参考文献

  • 資料A1:『岩波仏教辞典 第二版』年表
  • 資料A2:『岩波仏教辞典 第二版』(年表を除く)
  • 資料B1:『仏教文化事典』年表
  • 資料B2:『仏教文化事典』
  • 資料C1:『論集日本仏教史』年表
  • 資料D:『寺院神社大辞典 近江・若狭・越前』
  • 資料E:『古寺名刹大辞典』
  • 資料F:『新撰日本仏教年表』
  • 資料J:『天台真盛宗読本』
  • 資料H:宮家準2006「近現代の山岳宗教と修験道」
  • 資料K:『神道事典』
  • 資料L:『日本天台史』
  • 資料M:『デジタル版 日本人名大辞典+Plus』
  • 資料W01:園城寺ウェブサイト
  • 資料W02:天台寺門宗ウェブサイト
  • 資料W05:天台寺門宗ウェブサイト智証大師年譜
  • 資料W03:大正大学ウェブサイト
  • 資料W04:園城寺宗祖智証大師生誕1200年慶讃ウェブサイト
  • 資料G01:『太政類典』
  • 資料G02『法令全書』
  • 資料G03:『宗教制度調査*資料 江戸時代宗教制度年表』
  • 資料G04:『公文録』
http://shinden.boo.jp/wiki/%E5%A4%A9%E5%8F%B0%E5%AE%97%E3%81%AE%E5%B9%B4%E8%A1%A8」より作成

注意事項

  • 免責事項:充分に注意を払って製作しておりますが、本サイトを利用・閲覧した結果についていかなる責任も負いません。
  • 社寺教会などを訪れるときは、自らの思想信条と異なる場合であっても、宗教的尊厳に理解を示し、立入・撮影などは現地の指示に従ってください。
  • 当サイトの著作権は全て安藤希章にあります。無断転載をお断りいたします(いうまでもなく引用は自由です。その場合は出典を明記してください。)。提供されたコンテンツの著作権は各提供者にあります。
  • 個人用ツール